◆−伝えたい事−かぼちゃ (2003/7/8 18:43:46) No.26483


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26483伝えたい事かぼちゃ 2003/7/8 18:43:46



 今日、私の通う学校の近くで誰かが誰かに刺されたそうです。
 その人がどうなったかは知りません。
 だけど、この事で私は生きる事と死ぬ事について少しだけ考えてみました。

 もう、誰が何処で死んでいてもおかしくない時代になったと実感しました。テレビや新聞で、誰がどんな風に死んでいたとしても驚く人は僅かです。こんなに身近な場所で起こった事件にすら、私は『へぇ・・・そうなんだ。』程度の感情しか抱く事が出来ませんでした。少しも驚きませんでした。怖くもありませんでした。
 今、私たちの人生に死はとても身近なものに変化しているようです。いつも何処かで誰かが死んでいます。ある人は飢えで、ある人は殺されて、ある人は事故で、ある人は病気で、ある人は寿命で。常に誰の傍にもソレはあると思いました。ソレが人の自然な姿だと思います。
 人の人生に・・・いえ、生き物の命に唯一、運命付けられてるものがあるとすれば、私は迷うことなく“終わり”だと答えます。“始まり”があるのだから必ずそれも存在すると思うのです。きっと、終わりが無いのは“時そのもの”だけなんでしょうね。
 それなのに、どうして私たちは生き続けるのでしょう?そこにはどんな意味が、どんな理由があるのだろう?
 私はそんなもの知りません。知りたくもありません。生きていたいから生きている。それだけでいいと思います。私は神様だか何だかの作った理由のために生きてるんじゃありません。
 人はいずれ死んでしまうと、私はある程度は覚悟して生きているつもりです。ただ、人生は長いか、短いか・・・・・・でも、本当に大切なのは、その中で何に出会うか、何を為すか・・・・・・きっと、長さなんて関係ないんだと思います。
 私は今、とても幸せです。もし、誰かのために人生を懸けろと言われたら、喜んで人のために尽くしたいと思います。人が人のためにできる事の一つだと信じています。
 今も私が生きているのは、まだその時が来ないから。その時がきたら私も終わるのでしょう。私が幸せを噛みしめ、学校に通い、友達と話し、家族と暮らしているこの瞬間、誰かが終わりを迎えているかもしれない。私の知らない誰かが、私の知らない何処かで死んでしまったかもしれない。
 あなたは自分が死ぬ時、抵抗しますか?
 受け入れる事も出来ると思います。それでも私は何かせずにはいられないでしょう。何もしないまま死んでしまうのは虚しいだろうから。今、ここにある幸せを出来るだけ長い間、感じていたいから。死にたくないから生きているんじゃありません。生きていたいから死にたくないんです。
 私は生まれてきました。これは“卒業式”のようなものだと思います。母校、つまり、母親の胎内に育まれてきた時を脱して何も無いところに放り出される・・・そういうものだと思うんです。
 今生きているこの時は“春休み”でしょう。一番自由で、楽しい時なんだと感じます。
 そして、死は“入学”だと思います。それはとても怖いものです。楽しい“春休み”が終わってしまうのは嫌な事だと思います。誰にとっても、何も知らない未知の世界に行くのは怖い事だと思います。だからこそ、昔の人たちは『その先には何があるのだろう?』と、好奇心を抱き、天国や地獄を作り出したのでしょう。
 “春休み”は、始まりも終わりもバラバラだけれど、大切なのはその間、自分が幸せだったか、誰かを幸せに出来たかということ。

 そのために今、私は生きています。
 誰かを幸せにするために。私が幸せになるために。

 だからあなたも幸せになってください。
 あなたの大切な人を幸せにしてください。

      これが私の伝えたい事の全てです。