◆−「のあ」の方舟−ハイドラント (2004/12/31 21:47:48) No.31006
 ┣お久しぶりです−エモーション (2005/1/9 23:21:54) No.31060
 ┃┗Re:お久しぶりです−ハイドラント (2005/1/12 01:25:56) No.31077
 ┗FOUR――何とかの場所−ハイドラント (2005/1/12 01:33:03) No.31078


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31006「のあ」の方舟ハイドラント 2004/12/31 21:47:48



 「のあ」の方舟


 このところずっと雨が降り続いています。このままだとぼくの町は水没してしまいかねません。ぼくはノアの方舟をつくることにしました。
 ですが、いきなり問題に激突です。
 ノアの方舟というのは、ノアさんという人がつくったから「ノア」の方舟なのです。「ノア」という名前を持たないぼくがつくっても、「ノア」の方舟にはなりません。
 これは宇宙の法則。絶対的決定事項なのです。デモ抗議しようが、自爆テロしようが、核の存在をちらつかせて脅迫しようが、どうにもならないことなのです。
 しかし、つくるのは「ノア」の方舟でなければなりません。まがいものでは、すぐに沈んでしまいます。
 ことばというのは神さまなのです。「ノア」の方舟は、「ノア」ということば、つまり神さまに守られたお陰で見事に洪水を乗り切ったのです。そうに違いないのです。
 これは大ピンチです。目の前が真っ暗になりました。
 けれでもこの問題はすぐに解決されました。なぜなら、ぼくはその後すぐに、ぼくのいもうとの名前が「のあ」であることに気づいたからです。
 「のあ」と「ノア」。確かに表記は異なりますし、発音も違うでしょうが、これくらいならぎりぎり許されるような気がします。
 早速、ぼくはいもうとの部屋へ向かいました。いもうとは十六歳。もうとっくに子どもだから、ことばは分かります。むしろぼくに言わせればことばの天才です。
 イスに偉そうにふんぞりかえったいもうと(事実、いもうとはプリンセスなので偉いのですが)にぼくは、事情を正確に説明し、制作の協力を要請しました。
 返事は簡単。 
「名前だけ使えば?」
 こうして僕の「のあ」の方舟制作がスタートしました。


 「のあ」の方舟制作で、一番初めにしなければならないのは材料集めです。
 まず必要なのはメインの材料である木材。ほんものの「ノア」の方舟は木で作られました。
 何でも糸杉という木を使ったらしいのですが、残念なことにこの木は日本にはあんまり生えていないらしいのです。
 ですが、ぼくは何としてでもこれを手に入れなければなりません。しかも大量に。「ノア」の方舟は大きいのです。
 さすがに海外から買いつけられるほどの財力はぼくにはありません。ぼくのお家はどっちかというとお金持ちな方なのですが、お家のお金はぼくのものではないのです。
 両親に助力を乞うという手は使えません。彼らは守銭奴です。お金の亡者です。お金が欲しいなんていったら殴られます。
 仕方ないので、自力で手に入れることに決めました。
 飛行機のお陰で世界は狭くなりました。ぼくは、一刻も早く糸杉のある国に飛ぼうと空港までいきました。
 ですが、いざ空港に足を踏み入れようとした時、重大な見落としに気づきました。
 そう、僕には木を手に入れる力が、つまり木を切り落とす技術がないのです。いくら木があってもそれを切れなければ意味がありません。
 というわけでぼくは木を切り落とす技術を身に着けるため、「きこり」になることに決めました。
 何でも近所には「きこり」学校なる場所があるそうです。そういう施設が最近出来たのだとどこかで聞きました。
 ぼくはその「きこり」学校を探すため、町を自転車で探索しました。
 雨が降っていたのでなかなか大変でしたが、三日くらいで見つけることが出来ました。結構意外な場所にありました。
 田んぼの連なるじゃり道にぽつんとあった「きこり」学校の正確な名前は、全日本「きこり」協会立「きこり」専門学校。
 サイコロみたいな形の小さな建物でした。小ささはコンビニ顔負けです。
 外観は真っ白に塗られていて、確かに清潔感はありましたが、同時に得体の知れない怪しげな雰囲気をかもし出していました。無論それは周囲とのギャップのせいでもありますが。
 入り口の自動ドアを潜って中に入りました。土足厳禁ではなさそうだったので、靴を履いたまま入りました。
 自動ドアの向こう側は六畳間くらいの大きさの空間になっていて、受付カウンターのようなものがありました。逆に言えば、それくらいしかありませんでした。壁も床も天井も真っ白で、窓もなく、カーペットも敷かれていませんでした。その代わりにはなりませんでしょうが、奥の壁に下りの階段がありました。ちなみに照明は蛍光灯でした。
 殺風景で寒々しく、雨の音が良く響きました。
 カウンターの向こうには女性が一人いました。その女性は、漂白剤でいっぱいになった浴槽にダイビングしているシーンをイメージしたくなるくらい白い肌をしていて、どことなく儚げでかなり美しい顔立ちを所有していました。
 ぼくはカウンターの方へ接近していきました。緊張して身体が震えました。女性に話し掛けるのはあまり得意ではありません。
 でもこれは使命なのです。やらなければなりません。そしてやりとげなければならないのです。
「あのぅ……ここが、あの、何というか、その……」
 予想通り、どもって、言葉に詰まりました。もの凄く恥ずかしい思いをしました。
「ええと、「きこり」になりたい方ですよね」
 女性の方からそう言ってくださいました。声がクリスタルみたいに綺麗でした。
「は、はい」
 ぼくは頷きました。
 こうしてぼくは「きこり」になるために第一歩を踏み出したのです。


 女性に先導され、ぼくは階段を下りました。明かりがないせいで真っ暗でしたが、手すりがあったので、転げ落ちてしまうようなマネはしませんでした。
 下りきった先には縦長な金属の扉がありました。女性がその中に入っていったので、ぼくも入りました。
 扉をくぐると上と同じくらいの大きさの白い空間がありました。カウンターも下り階段もありませんでしたが、その代わり、学校とかで使うような机が二つ、手前側と奥側に向かい合うようにおかれていました。
「入学希望者です」
 女性は簡潔にそう言いました。ぼくにではありません。奥側の机に座っている人にです。
 その人は先生でした。いや、先生だと確定したわけではありませんが、スーツ姿で教鞭を持つ三十代半ばくらいのキリリとした鋭い目を持つ男性は、人にものを教えることを専門にしている人種が持つ独自の雰囲気を、これでもかというほど身に纏わせていたのです。
「先生ですよね」
 ぼくには確信があったのでいきなり訊ねました。男性に話し掛けるのは得意です。
 先生は頷きました。やはり先生でした。
 ぼくは単刀直入に言いました。
「「きこり」にはどうやってなれば良いんですか?」
 先生は微笑みを浮かべました。でもいかにも作ったような微笑みでした。そしてこう言いました。
「そうですねえ。……まあとりあえず、座ってください」
 手前側の空いている机に座れ、ということでしょう。ぼくは従いました。女性はそれを見届けると、上へと引き返していきました。
「「きこり」になりたい方ですね」
 二人きりになると先生はまた作り笑いを浮かべて言いました。
「はい」
 ぼくは頷きました。女性に同じことを言われた時とは違って、はっきりと強く。自分なりに強い意志を表現してみたつもりです。
「では、いくつか質問をさせて頂きます。これは面接のようなものと思ってくださって構いません」
「面接……ですか?」
「はい、面接です」
 面接は苦手ですが、まあこれも運命です。ぼくは頭を面接モードに切り替えました。
「では、まずお名前と年齢、良ければ住所と電話番号を教えてください」
 ぼくはその質問に答えました。個人情報は明かしたくないので、答えの内容については一切書くつもりはありませんが。
「では**(ぼくの名前だ)さん、最初の質問です」
 間が開き、場の空気が重くなりました。ぼくは逃げ出したい気持ちをぐっとこらえ、先生を見つめたまま、開戦の瞬間を待ちました。
 その瞬間が訪れます。
「「きこり」に必要なものは何だと思いますか。三つお答えください」
 これは面接の質問というよりはテストの問題に近いです。面接モードに切り替えてあった頭はパニックを起こしてしまいました。
 そんな状態で咄嗟に導き出した答えですから、間違っていて当たり前です。
「ええと、お金とコネと運」
 「きこり」は歌手でも役者でも芸能人でもありません。あまりにもな愚答に対し、ぼくは自分を殴りたくなりました。
「不正解です」
 先生のお言葉は予想通りのものでした。でもその後の言葉は予想外でした。
「残念ですが、失格です。あなたには「きこり」になるための指導を受ける資格はないようです。お帰りください」
 先生のことばは思いきり不遜でした。
「それはどういうことですか? もしかして、これだけで失格なんですか?」
 ぼくは怒った口調で言いました。
「はい、まことに残念ですが」
 言い方は全く、残念そうではありません。
「でも、もう一度。もう一度だけチャンスをくださいませんか?」
 ぼくは怒りを抑えて懇願しました。
 しかし返って来たのはひどいことばでした。
「すみません、チャンス一回が原則なんですよ。例外を許すわけにはいきません。それにあなたでは何回やっても無駄だと思いますよ」
 ぼくはもの凄くむかつきました。正直、キレようかと思いました。キレて少年犯罪の歴史に新たな一ページを加えてやろうかと本気で思いました。
 でも止めました。なぜなら武器がないからです。ぼくはびっくりするくらいケンカが弱いので、素手で先生に襲い掛かっても、多分、反撃されて、鎮圧されてしまうのがオチです。
 諦めて引き下がることにしました。まことに残念ですが。


 帰宅後、ぼくはパソコンを立ち上げました。即刻、インターネットに接続です。
 検索サイトの検索エンジンで、「きこり」について調べました。
 独学で「きこり」を学ぶか、弟子入りさせてくれるような「きこり」を見つけるかするためです。
 でも、だめでした。
 「きこり」については表層的なことしか分かりませんでしたし、一流の「きこり」の人も見つかりません。多分、「きこり」はインターネットなんかしないのでしょう。
 でもぼくは諦めませんでした。インターネットがだめなら身近にいる人に聞けば良いのです。
 ぼくはいもうとに「きこり」について知らないか訊ねてみました。
「きこり? 何言ってんの?」
 それが返答でした。
 父にも尋ねました。結果は同じでした。
 母にも尋ねました。宿題をしなさいと言われました。
 翌日、友達にも訊ねました。ゲームの話だと思われました。ちゃんと事情を説明すると正気を疑われました。
 町の人に訪ね歩きました。誰も相手にしてくれませんでした。
 ああ、八方塞です。どうすれば良いのでしょう。
「神さま、教えてください」
 ぼくは虹の掛かった空を見上げながら、小さな声で呟きました。


 あとがき
 図書館が好きです。
 静かで独特の雰囲気を持っていて素敵なのもありますが、何より私は本を借りるっていう行為が大好きです。
 これにしようか、あっちにしようか、借りられる本の数が決まっているので、毎回悩むんですが、そうやって悩んでいる時間がかなり至福に近いのです。
 多分、本を読む行為より好きだと思います。
 でも図書館の影響で、自分でお金を出して本を買うことが少なくなって来ました。
 既刊は古本屋か図書館、新刊は普通の書店、とかつては決めていた私ですが、図書館でも新刊が読めるので、お金が掛からないから、とそっちの方で読んでしまい、普通の書店で買いものすることはめっきり減りました。
 普通の書店で本を買わないと、その本の作者や出版社にお金を払っていることにはなりません。
 つまり私は読む本の作者に対し、ちっともお金を払ってないことになります。
 何となく気まずいです。
 どうせなら図書館もお金取れば良いんです。
 初版発行どれだけ以内とか入荷どれだけ以内の本は貸し出し料金○○円みたいな感じにして、その貸し出し料金○○円はその本の作者や出版社のものになるということで。
 ……って、何かかなり無茶苦茶なこと言ってますけど、私。


 ハイドラントです。
 何かここに小説投稿するの凄い久しぶりな気がします。
 チャットにはしばしば顔出していたんですが。
 今回はノリで書いた短い作品をお届けします。
 スレイヤーズ色はゼロ。大晦日色もお正月色もないです。
 そして小説というよりは、ショートショート、あるいは寓話といった方がしっくり来るような感じになっていると思われます。
 リアリティなんて欠片もなく、常識だってありません。砂上の楼閣って言葉が似合いそうです。
 そんな作品ですが、読んで少しでも面白いと思っていただけると幸いです。


 というわけで、本日はこれで失礼させて頂きます。
 

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31060お久しぶりですエモーション E-mail 2005/1/9 23:21:54
記事番号31006へのコメント

こんばんは。そしてお久しぶりです。
今回はショートショートですね。
「ノアの方舟」だから制作者の名前はノアでなくてはならない……。
…………何もそこまでこだわらなくても(笑)
そして妹の名前が「のあ」という部分でつい、「両親はパトレイバーに
ハマってた?!」と勝手な妄想をしました。
それにしても、名前に材料は糸杉と、とにかくこだわる主人公なのですね。
そのためにきこりを目指す辺りがさすがです。
また、何気に流してしまいますが、「きこり」になるために設立された専門学校の存在が、
この話で一番謎かもと思いました。
ラストの虹による無意味感もなんともいえません。
さて、主人公はいつまで神様に助けを求めるのでしょうか……(汗)

さて、あとがきの図書館に思わず反応してしまいますが(笑)

> どうせなら図書館もお金取れば良いんです。

それは法律違反……というより、図書館の存在意義の根本に関わりますよ〜(汗)
お金を取ると財産のあるなしで資料を利用出来る機会が決まってしまい、
基本的人権のひとつである「知的自由」を侵害してしまうことになってしまうため、
「公共図書館は利用者から利用料金を取ってはならない」と図書館法
(他、各種図書館に関する権利宣言)で決められていますので。
最近ビデオやCD、DVD等のように、書籍も著作者にロイヤリティ料金を払おう、
という話は出てきていますが、実際に払うようになったとしても公共図書館が、
利用者からお金を取ることには絶対になりませんので、気にせずに借りて下さい。
どうしても気まずいというのであれば、好きな作家さんの本や読んでみて
気に入った本は改めて本屋さんで買いましょう。私はそうしてます。(^.^)

それでは、また妙なコメントになってすみませんが、今日はこの辺で失礼します。

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31077Re:お久しぶりですハイドラント 2005/1/12 01:25:56
記事番号31060へのコメント


>こんばんは。そしてお久しぶりです。
こんばんは。こちらこそお久しぶりです。
>今回はショートショートですね。
何というか、リハビリみたいな感じで書きました。年末辺り、疲れててあんまり書けなかったので。
>「ノアの方舟」だから制作者の名前はノアでなくてはならない……。
>…………何もそこまでこだわらなくても(笑)
うーん、きっと、言霊思想の強い方なんですよ(笑)。
>そして妹の名前が「のあ」という部分でつい、「両親はパトレイバーに
>ハマってた?!」と勝手な妄想をしました。
だとすると運命的ですねえ。両親がパトレイバー好きじゃなかったら、主人公の計画は頓挫している、と……
>それにしても、名前に材料は糸杉と、とにかくこだわる主人公なのですね。
映画監督にでもなったら、良い作品を撮ってくれそうです。
>そのためにきこりを目指す辺りがさすがです(笑)。
>また、何気に流してしまいますが、「きこり」になるために設立された専門学校の存在が、
>この話で一番謎かもと思いました。
主人公の住んでいる地域には変な人がいっぱいいるのかも知れません。
>ラストの虹による無意味感もなんともいえません。
>さて、主人公はいつまで神様に助けを求めるのでしょうか……(汗)
のあちゃんがいますからきっと大丈夫です(?)。
>
>さて、あとがきの図書館に思わず反応してしまいますが(笑)
>
>> どうせなら図書館もお金取れば良いんです。
>
>それは法律違反……というより、図書館の存在意義の根本に関わりますよ〜(汗)
>お金を取ると財産のあるなしで資料を利用出来る機会が決まってしまい、
>基本的人権のひとつである「知的自由」を侵害してしまうことになってしまうため、
>「公共図書館は利用者から利用料金を取ってはならない」と図書館法
>(他、各種図書館に関する権利宣言)で決められていますので。
うーん、法律違反っていうのは何となく知っていましたが、そういう事情があるとは。
>最近ビデオやCD、DVD等のように、書籍も著作者にロイヤリティ料金を払おう、
>という話は出てきていますが、実際に払うようになったとしても公共図書館が、
>利用者からお金を取ることには絶対になりませんので、気にせずに借りて下さい。
著作者にロイヤリティ……ですか、それも知りませんでした。
>どうしても気まずいというのであれば、好きな作家さんの本や読んでみて
>気に入った本は改めて本屋さんで買いましょう。私はそうしてます。(^.^)
うーん、そうします。
>
>それでは、また妙なコメントになってすみませんが、今日はこの辺で失礼します。
いえいえ、お勉強にもなりましたし、どうもありがとうございます。


それでは……

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31078FOUR――何とかの場所ハイドラント 2005/1/12 01:33:03
記事番号31006へのコメント



 FOUR――何とかの場所


 どうしても、思い出すことが出来ないのです。
 いえ、別に思い出したからといってお金が儲かったり、女の子がたくさん寄って来るような、良いことがあるわけではありません。
 それに、誰かに迷惑を掛けてしまうわけでもないので、怒られたり、殴られたり、ボコボコにされて身包み剥がされたり、殺されて海に沈められたり、山に埋められたりするようなこともありません。
 思い出せないのは、ごくごく個人的なことです。
 ですが、ぼくにとっては、とにかく気になって気になって仕方のないことなのです。
 朝ごはんを食べている時も、自転車をせっせと漕いで学校に向かっている時も(ユーターンしてお家へ帰る時も)、学校で退屈な授業を聞き流している時も、お昼、お弁当を食べている時も、お気に入りの音楽を掛けて読書している時も、お風呂の時も、おトイレでふんばっている時や寝ている時も、この記憶の欠落のことが頭から離れてくれません。
 このまま思い出すことが出来ずに時だけが流れていったら、ぼくは思い出すことの出来ない苦しみのあまり、頭がおかしくなって、自ら命を断ってしまうのではないでしょうか。
 実は、その時のための遺書もすでに用意してあります。用意が良いとしばしば言われます。
 

 発端は3日前、公園のベンチに座って夕焼け空を見ていた時のことです。
 鋭く冷たい風が吹く中、冬枯れの木の向こうに赤く燃える空は、どこか頼りなく、もしも形があるのなら、温かく抱き締めてあげたいくらいラブリーでした。知っていましたか? 空というのはうら若き乙女なのですよ。
 ぼくがつまらない思考に耽っていると、後ろの方から足音と声が聴こえて来ました。
「そういや、あの本、もう読んでくれた?」
「えっ、それってあれ? こないだ言ってたやつ?」
「うん、それ」
「あー、まだだな。何てタイトルだっけ」
「「螺旋階段とウロボロス」」
 若い男女の会話でした。歩きながらお喋りしているようです。多分、カップルでしょう。大きな明るい声です。
 何となく振り向くのはためらわれたので、そのまま空を見続けましたが、声は1語1句、正確に聞き取りました。ぼくは耳が良いのです。
 会話の中に出て来た「螺旋階段とウロボロス」というのはぼくも読んだことのある小説のタイトルでした。2年くらい前に読みました。
 風変わりだったり、マニアックだったり、実験的だったりする小説に強く心を惹かれてしまうぼくにとって、この「螺旋階段とウロボロス」は、大砂漠をさまよい歩いてもう死にそうな時に見つけた冷房完備の建物の中のふかふかベッドと、良く冷えた「午後の紅茶」(ぼくの好物です)の2リットルペットボトルのようなものでした。言い換えれば楽園だったのです。
 やがて男女の会話は「螺旋階段とウロボロス」とは全く関係ないものになり、小さくなって消えていきます。
 ぼくは「螺旋階段とウロボロス」について思いを巡らせました。


 それぞれ完全に独立した、5つの長さの異なる作品を収録した作品集で、厚さは300ページ(一段組みです)ほど。暗黒をバックに水面に映った満月の絵が表紙のハードカバーで、お値段はボリュームの割には高く2000円。でも、図書館で借りたので大切な漱石さまを犠牲にせずに読むことが出来ました(それが読書をする者にとっていかに罪深いことであるのかは億も承知です。罰ならば甘んじて受けませう)。
 作者は灰城雪(はい・しろゆき、と読むそうです)というイタリア人。日本に帰化していて、日本語は並みの日本人以上に上手に操ることが出来るそうです(巻末の解説で解説者がそう述べていました)。けれども年齢はおろか性別さえも明らかになっていないとか(解説者が解説そっちのけで無粋な推測をしていました)。
 確か最初の作品は、表題作である「螺旋階段とウロボロス」。
 延々と続く螺旋階段を下り続けている男の人が、自分は一体何者でなぜここでこんなことをしているのか、を思い出そうとするお話でした。
 ですが、思考は堂々巡りの罠にはまって、結局、何の解決も迎えぬまま物語は閉じまうのです。
 30ページほどの短編でした。
 螺旋階段の描写が妙に心に残った、という記憶があるのですが、あいにくその描写の内容は忘れてしまいました。
 2作目は、「パパイヤ猫」。
 みかん猫という架空の生き物の存在を、様々な手段と莫大なお金を用いて、平民の恋人に信じ込ませようとする大金持ちのお嬢さまのお話でした。
 ですが、そのお嬢さまはみかん猫の存在なんかこれっぽっちも信じていないのです。自分の信じていないものを恋人に信じさせようとするわけは最後まで明らかにはされず、お話は第三の計画(野良猫を遺伝子操作してパパイヤ猫を作ろうとする計画)が失敗(パパイヤ猫ではなく恐ろしい怪獣が生まれ、お嬢さまのお父さまが極秘に開発していた最新兵器で退治された)に終わったところで、終わりました。
 こちらは70ページくらいの短編とも中編ともつかないサイズでした。
 展開はユニークで、文章も明るく平明だったため、とても読みやすかったのですが、同時に稚拙で未熟な印象も見受けられ、当時の(今もですが)ぼくとしてはそれほど楽しめませんでした。
 3作目は、「雨の梯子」。
 これは2人の女性が雨の魅力について語り合うお話。
 僅か5ページの小品でしたが、イメージが無限大に氾濫していて、どんなに大きなお話よりも奥深い世界へぼくをいざなってくれました。
 雨嫌いのぼくを僅か数分で雨好きに変えたほどのもの凄い作品です。
 5作目は「永劫の庭で」。
 これは異世界ファンタジーというのでしょうか。現実世界ではなく、古き良きヨーロッパ風の異世界を舞台にしていました。
 森の奥にひっそりと住む女々しいタイプの美青年の元に、雄々しいタイプの傭兵の美青年が尋ねて来て、世界について色々と語るというお話でした。2人の会話を聞いているだけで、作中の世界観が徐々に分かって来るという仕掛けになっていました。
 朝露に濡れる薔薇やカーテンで光を遮った部屋の描写が、クラシカルで優雅なムードをかもし出す素敵なお話でしたが、二人の青年の名前が、マリオとルイージ(どちらもごく普通のイタリア人名なのですが)だったので最初の10数ページは大爆笑の連発でした。
 ページ数は200ページ近くあって、量だけで言えばこのお話だけでも1冊の本を作ることは可能だったでしょう。しかし、この作品は未完成でした。会話の途中で唐突にお話が終わっているのです。


 ぼくが「螺旋階段とウロボロス」の3作目や5作目については語っても、4作目には一言も触れなかったことを、あなたはどのように思われたのでしょうか。
 数字もろくに数えられないバカだと思われたのでしょうか、あるいはどうしようもないひねくれ者と思われたのか。
 いいえ、違うのです。けっして、そうではないのです。
 ぼくは3作目と5作目の間に4作目が存在することは当然のように分かっていましたし(当たり前です!)、それを敢えて語らなかったのでもありません。
 語れなかったのです。本当なら語りたかったのに、どうしても語れなかったのです。
 なぜならば、ぼくは、3日前の公園のベンチで4作目のお話とそのタイトルを思い出すことが出来ず、そして今も思い出せないままなのですから。
 
 
 何とかの場所、というタイトルの作品だったことまではすぐに思い出せました。
 といっても本当に「何とかの場所」というタイトルをしていた、というわけではありません。「何とか」という部分には何らかの言葉(きっと、ぼく好みの素敵な言葉です)が入ります。
 それが何という言葉なのかをまずぼくは思い出そうとしました。大体どんな感じの言葉なのか、ということだけでも分かれば、内容を思い出すための足掛かりになると思ったからです。
 とにかく色々な言葉を当てはめてみました。
 たとえば、二人。それから、愛、恋、夢、希望、未来、記憶、思い出、神さま、星、月、太陽、空、オーロラ、電波、宇宙、アンドロメダ、電動歯ブラシ、ワオ・キツネザル、ハト麦茶、自動車修理センター、すき焼きパーティ会場……
 ベンチに座ったまま、その作業を一時間ほどおこないました。
 でも、だめでした。ぼくの記憶に反応は一切ありません。
 そこではっと閃きました。自分で思い出す必要なんてないのです。インターネットを使えば簡単に分かります。「螺旋階段とウロボロス」で検索するだけで良いのです。
 帰り道は追い風でした。
 ぼくはお家へ辿り着くと、すぐに自分のお部屋に向かいました。デスクの中央で眠るコンピュータを起こし、インターネットに接続しました。某大手検索サイトのトップページが表示されます。
 ですが、いざ検索! となってみると、何だかそれが許しがたい禁じ手であるような気がして来ました。他力本願ではいけない。自力で思い出さなければ。そんな風に思えて来たのです。
 ぼくはその気持ちに従うことにしました。


 バカじゃないのか? あなたは言うかも知れません。それは正しい意見です。
 そしてぼくは誤っていて、愚かです。
 ですが、ぼくは自分が愚かであることを自分に許すことが出来ます。愚かでも良いんです。ですが、、自分を曲げるのは、自分の思いに無理矢理反するのは、死んでも嫌なのです。
 ぼくは何もかもを捨ててしまったつまらないガキです。ですが、誇りだけは捨てていません。
 こうして三日が経ちました。
 今、ぼくは自分の部屋で窓の外を眺めながら、記憶のサルベージ作業を続けています。
 雨が降っています。ざあざあと激しい雨です。
 もうすぐ聖なる日なのだから、雨ではなく雪を降らせて欲しいのですが、神さまはぼくのお願いごとなんて聞いてはくれません。なぜなら神さまなんて本当はどこにもいないのだから。
 ぼくは神さまなんて信じません。特にメイド・イン・ホモサピエンスの人間に都合の良すぎる神さまは。
 
 
 聖なる夜、窓の外から聴こえて来るのは、やかましい雨の音。ちっともロマンチックじゃありません。
 もしも、ぼくに恋人がいても、こんな日に会いたいとは思わないでしょう。
 まだぼくの記憶は取り戻せていません。もう一週間もすれば、新しい年がやって来るというのに。
 無機質な蛍光灯の灯りの下、鋭く閃くカミソリの刃を見つめながらぼくは、人は死んだらどこにいくのだろう、不毛な謎について考えを巡らせました。
 ぼくは少しおかしくなっているようです。
 
 
 ああ、神さま。
 ぼくはあなたを信じないと言いました。それに失われた記憶は自分の手で取り戻すとも言いました。
 けれど、もうだめなのです。
 求める記憶が眠る場所を残酷に閉ざす扉は、ぼくが思った以上に強固で、その扉を開けるための鍵はどこを探しても見つからないのです。
 答えが欲しいとは言いません。いいえ、答えなんていりません。それは自分の手で掴まなければならないものなのです。
 ぼくが欲しいのは真実の花が咲く絶壁へと登るための足掛かりなのです。
 神さま、一生のお願いです。
 もしも本当に、あなたがこの世におられるのならば、どんな些細なものでも構いません。このぼくに失われた記憶を取り戻すための足掛かり、ヒントをください。
 この冷たく孤独な戦いを終わらせるためにはどうしてもそれが必要だと気づいたのです。
 ああ、どうか神さま……


 大晦日の夜、夢を見ました。
 古代ギリシャの人みたいに布切れ一枚だけをまとったおじいさんがぼくの家を訊ねて来る夢でした。
 そのおじいさんは神さまでした。別におじいさんがそうだと言ったわけではありませんが、夢の中のぼくには分かっていました。
 おじいさんは言いました。ただ一言、「解放されよ」と。
 その瞬間、白い光がぼくの視界を覆い尽くしました。
 真っ白な中で、ぼくは鳥になりました。
 そして白い空間を自由に飛び回り、やがて光の中に溶けて消え、夢から覚めました。
 目覚めたぼくはコンピュータを立ち上げました。インターネットに接続です。
 見慣れた大手の検索サイト。検索ボックスの中へ、何かに取り憑かれたように文字を打ち込みます。
 R…A…S…E……完成した言葉は無論、「螺旋階段とウロボロス」。
 それで検索を始めます。
 結果はすぐに表示されました。

 
 「該当するページが見つかりません」
 一体どういうことでありましょうか。
 「螺旋階段とウロボロス」は世間的にはマイナーな小説でしょう。ですが、どんなマイナーな小説でも、インターネットの世界には必ずそれを知っていて、読んでいる人がいるはずです。
 他の検索サイトでも調べてみました。もちろん「螺旋階段とウロボロス」だけではなく、作者の「灰城雪」や、収録作品のタイトルでも。
 ですが、結果は一緒でした。たまに数件引っ掛かっても、全部、全く関係のない記事だったりして。
 ネット書店でも検索しましたが、こちらでもだめでした。
 ぼくは最後の手段として、いくつかの本好きの集まる掲示板に「螺旋階段とウロボロス」という本を知りませんか、というようなことを書き込みました。
 不安でいっぱいでした。
 まさか「螺旋階段とウロボロス」という本はこの世に存在しないのではないか。そうなるとそれを読んだぼくの記憶はニセモノなのか。それにあの男女の会話は一体……
 到底、お正月気分などにはなれませんでした。
 
 
 
 ぼくの書き込みに対する返答は、例外なく、どの掲示板でも、無視か、「知りません」という言葉でした。
 どうやらぼくは禁断の箱の蓋を開けてしまったようです。
 恐くて恐くてたまりません。
 世界中の誰もが知らず、恐らくは実在しない本を、読んでしまっていることが。
 ぼくは世界がずっと隠し通して来た秘密を知ってしまったのではないか。だとすると、秘密を知ってしまったぼくは口封じのために消されてしまうのではないか。
 妄想は膨らみます。
 ああ、神さま、これは罰なのでしょうか。
 不信心者のくせに、困った時になると子犬になって縋りついて来る、図々しさ極まりない最低の人間であるぼくへの。
 そうだとしたら、ぼくはあなたに許しを乞います。
 そして残る命、すべてをあなたに差し出しましょう。
 ですから、お願いですから、ぼくをこの恐怖から解放してください。
 

 ――了


 FIVE――永劫の庭で


 1
 神聖暦563年は、アビオラのサンタンジェロ通りでドラグニアの皇太子が暗殺された年であるが、傭兵のルイージが始めてマリオに出会った年でもある。


 
 
 
 
 あとがき

 
 なぜか今頃になってスーパーファミコンの「スーパーマリオワールド」にはまってしまいました。
 グラフィックが明るく、難易度が手頃で、気軽にプレイ出来るのが良いです。
 それにして今思うと、「マリオ」の世界観って実に独特でシュール、なかなか魅力的です。地面のあちこちから土管が生えていて、?マークの描かれた変なブロックや金貨が空中に浮いている。
 こんな風な世界観で小説(それも本格的な)を書けないかなあ、とついつい考えてしまいました。
 
 
 ってわけで、ハイドラントです。
 またもやショートショート的なものを書いてしまいました。しかもまた主人公が神さまに祈ってるし(笑)。
 今回、もしかしたらちょっとオチが分かり難いかも知れません(別に分からなくても、それはそれで良いようなオチなんですが)。
 ちなみに「螺旋階段とウロボロス」収録作の内、「永劫の庭で」だけはいつか書きたいなあ、と思っています。結局、書けずに終わりそうですが。
 

 それでは、読んでくださった方、ありがとうございます。