◆−カオティック・サーガ――神魔英雄伝説めもりある――−オロシ・ハイドラント (2003/8/5 21:59:40) No.14821
 ┣史上最悪の作戦(上)−オロシ・ハイドラント (2003/8/5 22:01:06) No.14822
 ┣史上最悪の作戦(下)−オロシ・ハイドラント (2003/8/11 20:01:26) No.14886
 ┗後書−オロシ・ハイドラント (2003/8/11 20:08:31) No.14887


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14821カオティック・サーガ――神魔英雄伝説めもりある――オロシ・ハイドラント URL2003/8/5 21:59:40


 こんばんはラントです。
 今回は神魔英雄伝説の短編です。
 位置付けは番外編ですが、実はある意味重要なエピソードなのかも知れません。
 ちなみに「めもりある」ですから、過去編になります。
 それでは……。

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14822史上最悪の作戦(上)オロシ・ハイドラント URL2003/8/5 22:01:06
記事番号14821へのコメント

「物語るとはどういうことか? それは他人をあざむくことさ」
 引用:古川日出男「沈黙」


 「史上最悪の作戦」


 大魔族王国連合管理界域――通称「魔界」。
 冥王宮、第一キッチンにて。


 ドガシャアアアアン!


 天地を揺るがす爆発音が、冥将軍アマネセルの聴覚を責め立てる。
 一瞬怯んでしまっていた彼女だが、すぐに立ち直って駆け出した。
「姉ぇえええええ!」
 叫び声は、台所へと届く。
 遅れて彼女が到着した時、その場所はあたかも闇のような、黒い靄に覆い尽くされていた。
「大丈夫か!」
 アマネセルは青黒い眼で闇を睨む。
 反応がないことを確認すると、彼女は霧の中へ駆け込んでいった。
 靄の中を手探りで進んでいく。
 視覚には頼れない。聴覚と触覚だけが頼りだ。
 この台所は意外に広い。だが、目標物の大体の位置は分かる。
 うめき声。
「そこだ!」
 彼女はそれを探り当てた。
 柔らかな感触。
 彼女はそれを持ち上げ、台所を抜け出した。


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「全く。無茶なことをしおって」
 アマネセルの自室。
 部屋はそこそこの広さを持っているが、調度品などは必要以上になく、質素な印象を与える部屋だ。
 今その部屋の寝台には、アマネセルの姉――蒼い聖服を纏った冥神官ノーチェが横たわっていた。
「ごめん」
 二人の容貌はかなり似ている。双子と言っても差し支えのないほどだ。
 ただノーチェは冷たい銀髪、アマネセルは明るい銀髪と髪の色はある意味対照的であるし、アマネセルは温和そうなノーチェと違って武人のような雰囲気を持っている。彼女が身に着けた鎧も、それに対して一役買っているのだろう。
「このような姉を持つと、気苦労が絶えん」
 ノーチェは妹の言葉に反論することが出来なかった。
 調理に失敗し、大惨事を引き起こした姉。
 その愚鈍な姉を救出した妹。
 自分は姉なのに……。
 ところで、現在の魔族間で言われる兄弟姉妹というのは、人間での「血が繋がっている」というようなものがない。血縁関係を証明するものはどこにもないのだ。
 それに兄弟姉妹は同僚として見られるので、姉と妹という考え方は捨てた方が良い。
 しかしノーチェにとってのアマネセルは、妹でしかない。平和が続いているためか、同僚として見たことはほとんどないのだ。
 やはりアマネセルは妹である。
 そして自分よりも優秀な妹である。
 劣等感は苦痛であり屈辱であった。
 この妹がいなければ……と、様々な理由でそう思ったことはあるのだが、その裏側には「自分は妹に劣るダメな姉だ。でも妹さえいなければ自分は比べる対象がいないため、一人の魔族でいられる」という理由が隠されていたのかも知れない。
 とにかく自分は妹に完全に劣っている。


「おい! おい姉っ!」
「あっ」
 自分の世界に入り込んでいたようだ。
 ノーチェははっとなって起き上がり、妹の方を見た。
「どうした。疲れていたのか?」
「いや……そんなことはないけど」
 そう言ったノーチェの肩を、アマネセルが軽く叩く。
「さっきは悪かった。がんばってくれ。上手くいくことをを期待しているぞ」
「え?」
 アマネセルは踵を返し部屋の入り口へ。そして部屋を出る直前に、
「それと……寝るなら自分の部屋にいけ」
 そう言って彼女はいなくなった。
 ノーチェはゆっくりと寝台から降りて、アマネセルの部屋を出た。


 その翌日。
 ノーチェはこれまでの十三度の失敗を経て、ようやくチョコレート作りに成功した。
 あの時にこそ奇跡が起こったと言えよう。
「……がんばってくれ。上手くいくことを期待しているぞ」
 アマネセルの言葉を思い出す。
 妹とは思えぬ妹。だが妹。
 彼女は魔族離れしているように見える。
 彼女の言葉は、随分と励みになった。
 だがその言葉は、アマネセルが、ノーチェが彼女に隠れてやっていたことを確実に見抜いていることも意味するのだろう。
 間違いない。
(アムは、あのことを知ってるの?)
 そんなことを考えつつ、ノーチェは自室の机に向かって、自分が書いた手紙を読み返していた。


 数万年の月日が私に病を植え付けました。
 いつの頃からか、あなたをずっと見ていたのです。
 私はあなたのオアシスになりたい。
 あなたは私のオアシスなのだから。
 こんな私を笑ってください。
 文字の上でしか、あなたに想いを伝えることが出来ない私。
 こんな私を笑ってください。
 でも、もしも美しいあなたに、雨粒の一滴でも私を哀れむ気持ちがあるのならば、あなたも私を見て欲しい。
 こんな私を許してください。
 あなたを想うノーチェ。


「う〜ん」
 書いていた時は意外に筆が進んだものだが、いざ出す時はやはりためらう。
 何度も読み返し、煩悶した。
 「あなた」へ送る恋の文。
 正解なんかないけれど、出来る限り良い文章を書きたい。
 「あなた」の心に伝わるように。
「血が流れる砂漠の中で……う〜ん、いまいち」
 違う紙を取り出して、他にも色々と書いてみた。
 しかし一向に良い文章は出て来ない。
(これじゃだめだ)
 こんな言葉では想いは伝わらない。
 思考を高速回転させ、あらゆる言葉を急速に紡ぐ。
「だめ。私才能ないのかなあ」
 だが良い文章はついに書けず、思わず漏れてしまう溜息。
 そうだ。自分には才能が全くない。無能者だ。妹と違って……。
「はあ。……土台無理なのかしら」
「そんなことはありませんよ!」
「え?」
 いきなり声。冷水を浴びせ掛けられたような感覚。
 驚いたノーチェの背後に気配が発生していた。
「恋文でしたら僕に任せてください」
 慇懃な声が聴こえる。
 ノーチェは後を振り向いた。
 青年がいた。年齢は二十歳ほど。服装は神官衣に黒いマント。闇色の髪は肩口で切り揃えられ、光沢を持っている。肌は白く端正で美しい。口元には笑みが浮かんでいる。
「愛の使徒、獣神官ゼロスに……ぐべぼっ」
「きゃああああああああああああああ」
 そして彼女は、自室に勝手に入り込んでいた青年に向けて、連続で拳を繰り出した。


「……痛いですよ」
「覗くからよ!」
 ゼロスの不服げな顔は、ノーチェの怒りをさらに掻き立てている。
「そんなあ、僕はただ……」
「帰りなさい! 帰ってよ」
 ゼロスはしばらくイジイジしていたが、突如立ち上がり部屋の入り口まで進むと、
「でも、本当によろしいんですか?」
「何……がよ」
 するとゼロスはノーチェに笑顔を向けて、
「あなたがあんなものを書いていたことですよ。魔族中に知られても良いんですか?」
「…………」
 脅迫。
 ゼロスの表情が悪魔のものに見えた。まあ彼も「魔」族なのだが。
「さあどうします?」
 優位は完全に崩れている。頼れる砦はすでにない。
 ゼロスは弱みを握っている。無防備なノーチェ。
 彼女はは必死で怒りを堪える。
「……仕方ないわ」
 しばらく考えた後、観念することにした。


 机に向かったノーチェの脇で、ゼロスが笑みを湛えている。
「恋文の基本は、相手に気持ちを伝えることです」
 彼はやけに嬉しそうだ。
 こんなことがやりたかったのだろうか。
「大事なのは「好きです」という言葉ですよ。聞いていますか?」
「……ええ」
「文章は短すぎても、無駄に長くてもいけません」
 これが正しいのか、間違っているのかは分からなかったが、ノーチェは結構熱心に聞いていた。
「それから……」
 ゼロスの講義はまだ続くようだ。
「相手に嫌悪感を与えるのは絶対にダメです。卑屈になり過ぎるのも考えものですね」
「……なるほど」
「それから分かり易く書くことも忘れてはなりません」
 それからゼロスはノーチェから紙と筆を取り上げ、椅子から降りるように指示し、
「さて実際に恋文を書くにあたってですが、今回は特別に、この僕が書くことと致しましょう」
「え?」
 するとノーチェは、表情に戸惑いを浮かべた。棒立ちのままゼロスを見詰める。
「あなたでは、まだ本当の恋文を書くことは出来ませんよ」
 そんなことを言われても、やはり納得がいかぬノーチェ。
「いえ、任せてくださいよ。ちゃんと「あの人」に渡るようにしますから」
「本当に大丈夫なの?」
「僕はゼロスですよ。任せてくださいって。それでは僕はこれで……」
 ゼロスだからどうしたのだ。ノーチェは心でそう呟きつつ、ゼロスの消える様を見守った。


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 夏の暑い陽射しの下。
 陽炎によって歪んだ世界。
 魔界でも有数の力を持つ高位魔族ダルフィンが住む海王宮のその近くに位置する平和記念公園のベンチに座っている少年は、その手紙を眺めていた。
 彼こそが海王神官セフィード。海王ダルフィンの直属の部下の一人である。
 彼は他の高位魔族と親交が深く、兄よりも遥かに人受けが良い。
 それゆえか手紙の受取り人である兄にではなく、彼が手紙を預かることとなった。
「さあ、どうしようかなあ」
 海王神官セフィードは白い手紙を眺めながら、邪な思考を回転させていた。
 紙面に目を向ける。最初の文字を見やる。そして文章を読んでいく。
 長すぎず短すぎない文章量。
 質は良い。純粋な表現はそれゆえに心を撃つ。
 伝えたいことは伝わっている。あからさまな形で、でも単刀直入ではなく……。
 良い文章だ。そしてそれだけではない。
 熱く抱擁されるような感覚。熱が身体の芯まで染み渡って来る。
 そうだ。それこそがこの手紙の持つ「愛」だ。
 セフィードはその手紙に、愛を感じた。
 愛という魔力に引き込まれそうになりながらも、彼は手紙を読み終える。
「あっ」
 そして読み終えた途端、眩い光が降りて来た。
 閃き急速に展開してゆく思考。
 手紙、恋文、文字、文章、差出人、受取人、愛……。
「そうか! こうすれば……」
 セフィードは急いで我が家に戻った。


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 海王宮、鏡の間。
 スィヤーフのお気に入りの部屋だ。
 壁中に自らの姿を映す大鏡。
 魔性の紅い瞳。漆黒のタキシードを纏い、黒い薔薇を口元に当てた美しい男。それが海王将軍スィヤーフだ。
 だがその美貌は、自分以外の誰にも注目されなかったようだ。
 絶世の美貌を持っていた伝説の美女、覇王女ネージュやその弟たるノーストはよく美しいと言われるが、彼はそんなことを言われた経験などない。
 誰にも理解されていない。
 だが劣等感はなかった。
 けして自分が劣っているわけではないと、それだけは信じている。そして自身の美しさが、すべてではないことを彼は知っているからだ。
 たとえば薔薇は美しい。
 清楚な白い薔薇。情熱的な赤い薔薇。妖艶な蒼い薔薇。そして彼の最も好む黒い薔薇。
 薔薇が美しくあらばこそ、自分は生きてゆくことが出来る。
 たとえ醜い姿で生を受けたとしても、美しき薔薇にさえ出会うことが出来たならば、生涯幸福でいられるだろう。
 幸福とは主観的なものだ。自分は美しい薔薇さえあれば良いと思っている。だから自分の人生も生涯幸福だ。
 けして薔薇の花だけがすべてではないが、薔薇は彼の大部分を占める。
 彼を真似たような極度に百合の花を好む弟もいるが、弟の百合好きと彼の薔薇好きは比べものにならないだろう。
「ああ、漆黒の薔薇よ」
 花は語らない。
 花は意思を持たず、ただ存在するのみ。
 彼の持つ薔薇も同じ。
 彼は知っている。彼の持つ薔薇も、鏡に映る虚像の薔薇も、どれ一つとして言葉を解さぬ。
 ゆえに返答を求めはしない。聞いてくれさえすれば良いのだ。
 たったそれだけだ。
「ああ、漆黒の薔薇よ。お前は俺の美しさを理解してくれるな」
 当然、薔薇は答えない。
「俺は美しいな」
 この行為をむなしいとは思わない。
 むなしさというものは、むしろ他者が感じるものだ。
 他人の思いなど関係ない。
 特に誰もいないこの空間では。
「将軍様!!」
 だが独りの時は終わりを告げたようだ。
 危機感にも似た感覚。
「わっ、何だ!?」
 鏡の間の扉――これもまた鏡で出来ている――が開き、外の世界が入り込んだ。
「お手紙であります!」
 強く響く声。
 声の主は肥え太った一人の男。
 スィヤーフは焦りのあまり、一瞬硬直してしまったが、すぐに男に向き直り、
「分かった!」
 怒りを含んだ声とともに、差し出した手紙をひったくる。
「とっとと失せろ!」
「はっ、はい」
 その男を下がらせる。彼は命令通りに部屋を去ったが、その顔に僅かな笑みが零れていたのをスィヤーフは見逃さなかった。
「あの野郎」
 見ていたのか。
「許せんな」
 やはり見られるのは恥ずかしいし、腹立たしい。
 スィヤーフは所詮その程度の男だ。結局、人の目は気にしてしまう。
「それにしても……何だこれは?」
 折り畳まれた上質紙。何か文字が書かれているようだ。
 見開くか? だが躊躇われた。
 獣の如く睨みつける。
 それは未知の敵に等しい存在だ。
 手紙などもらったことがない。
 何が潜んでいるのだろうか?
「いや、何を期待してる?」
 昂ぶる気持ちを抑える。
 どうせろくでもない内容だ。
 畳まれた手紙を、広げようと力を込めた。
 しかし手が激しく震え、うまく力が入らない。拒んでいるのか?
「そうだ。場所が悪い」
 スィヤーフは鏡の間を後にすることにした。
 手紙と一緒に持っていた黒薔薇を異空間にしまい込み、自分の姿を眺めつつ歩き出す。


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 海王宮――神官執務室は、将軍執務室とは違って資料などが綺麗に整頓されており、荘厳な雰囲気さえも感じさせる。
「ご苦労様」
 セフィードは上等な白百合を両手で弄びつつ、手紙を届け終わって戻って来た部下に、ねぎらいの言葉を掛けた。
 アザラシの如く肥え太った赤毛の男は、少年の――執務机を挟んだ――前方に、傅くのみで何も答えない。
「それじゃあ下がっても良いから」
 セフィードは足を組み替えつつ、優しい言葉を掛ける。
「それでは失礼致します」
 アザラシ男――名はジンといい、海王神官親衛隊の隊長を務める高位魔族である――は立ち上がって一礼すると、機械的とも思える動きで迅速に部屋を去った。
 その姿を見送るセフィードの脳裏に浮かんだのは、冥王フィブリゾの姿であった。
 フィブリゾもまた、彼と同じ少年の姿を持った魔族である。それも彼よりも一階級上に属し、基本的な実力では天地以上の開きがある。
「僕もあの人みたいになれないかなあ」
 だがフィブリゾは正真正銘の天才だ。いやそんな言葉では語り尽くせない。
 知識、理解力、発想力、表現力、行動力、判断力、情報処理能力……すべてにおいてセフィードは彼に劣っている。外見の美しさ、愛らしさでも勝てない。
 それにフィブリゾの持つカリスマ性は、彼にか欠片すらも存在しない。
「はあ、せめて僕も王様になりたいなあ」
 両手を顎に当てて、溜息を吐く。
 唯一絶対なる王。支配者。
 そうだ。自分は支配者になりたいのだ。
 冥王フィブリゾが冥王軍を自在に操るように、自分もまたすべてを意のままに動かしたい。
 海王神官という半端な役職のために、自由に動くことの出来ない自分。
「せめて……兄様がいなければ」
 兄様がいなければ。スィヤーフが消えてしまえば、待遇の良さは二倍になるのでないだろうか。
 いやそれはダメだ。
 彼は言葉には出さないが、兄を強く慕っている。
「前言撤回! 兄様は下僕にするから消えちゃだめ」
 けして素直ではないが、強く慕っている。
 それからセフィードは白百合を机に置き、代わりに近くにあった本「白百合の騎士」を手に取って、
「そういえば兄様、今頃どうしてるかなあ」
 悪戯めいた笑みを浮かべた。


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 夜が更ける。
 闇の色に塗りたくられた世界は活気を失い、一時の雌伏を余儀なくされる。
 だがやがて暁が訪れ、光は世界を蘇らせる。
 一日が滅し、あらたな一日が誕生する。


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14886史上最悪の作戦(下)オロシ・ハイドラント URL2003/8/11 20:01:26
記事番号14821へのコメント

「だから今日のあたしは、
 昨日のあたしぢやないンだらう
 少ォし死んで少ォし生まれてゐるからサ。
 そんなもの、幾日か経たうものなら、
 そつくり入れ替はつてるンぢやアないかねえ」
 引用:京極夏彦「陰摩羅鬼の瑕」
(引用に辺り、一部変換不可能な漢字がありましたため、その部分のみ変更されております)


 手紙を読んだ日の翌日、スィヤーフは魔竜王区へ向かった。
 それほど他軍と交流の深い男でなかった彼は、他の軍の生活区へ遊びにいくということに慣れてなく緊張していたのだが、いざいってみればどうということもない。そういえば毎回、無駄に緊張していた。
 鬱蒼と茂る森を抜けると、竜神官の住む青竜館が見えて来た。
 蒼き樹海に建てられた巨大な木の屋敷。多少古びて見えるが、それは同時に老練さを思わす雰囲気を発していた。
 正面の扉は三段の石段の上にあり、その石段の前には門番が立っていた。
「何者です!?」
 麗しくかつ、力強い声だ。
 声の主たる門番はまだ幼いとも言える。歳は十五、六か。
 白磁の如し肌や、淡い金色の短髪、大海の一角を切り抜いたかのような蒼い瞳は、どこか人形じみていた。
 彼は鉄の鎧に身を包んでおり、右手には巨大な槍を握っている。それが滑稽にも見えた。
 少年は突然現れたタキシードの男を、睨みつける。
 余裕たるスィヤーフの表情に気圧されているが、気丈にも直視を続けていた。
 面白いのでそのまま黙っていたスィヤーフも、見ている内に可哀相になって来たので、
「俺はスィヤーフ、海王将軍だ」
「ああ、スィヤーフ様でしたか?」
 途端に緊張した空気が消え去る。まるで世界が生まれ変わったよう。
「失礼致しました!」
 気恥ずかしさを覚えた少年は、慌てて敬礼のポーズを取った。
「どうぞお通りください!」
「気にしてなくて良いからな」
 スィヤーフはすれ違い様に声を掛けた。
「お慈悲をありがとうございます」
「それよりも、お前からもラルターク殿に頼んで欲しいことがある」
 扉を開きかけたスィヤーフは、背後に視線を移す。
「はい?」
「修行させて欲しいってことをな」
「修行……でありますか?」
「ああ」
 困り顔の少年。
「お前も役に似合わず、結構な地位してるだろ」
「はあ……それがしはただの番兵兼召使いですが……」
「でも結構な地位だろうが。それくらい面倒くさがるなよ」
「いえ、面倒なわけでは……」
 少年の顔はどんどん困惑の色に曇っていく。
「良いから。頼むよ」
「……でも」
「ご主人様が恐いのか?」
 なぜこんなにも無理に頼んでいるのだろうか?
 自分一人で言えば良いだろう。
「いえ、でもそれがしが出る幕など……」
 そうだ。その通りだ。
 スィヤーフは無意識に頷いていた。
「分かった。もう良いよ」
「あ……」
 苛立ったスィヤーフは、乱暴に扉を開けて青竜館へと入っていった。


 昨日スィヤーフはその手紙を読んだ。
 それは恋文だった。
 彼への想いを綴った手紙。文章の最後の方には、その日から数えて三日後の午後四時――二十四時間で数えてのものである――に、海王区の平和記念公園で会いましょうと書かれていた。
 読み終えてスィヤーフは、その恋文の虜となった。
 けして誇張表現ではない。
 美しき文字列は心を撃ち抜き、伝わって来るイメージは激しい妄想を生み出した。
 まさしく愛の手紙であった。
 さらに添え付けられたチョコレートは、まさしく禁断の味と言えるものであった。
 興奮と背徳心が彼を苛み、昨夜はまさしく地獄の如し。
 夜が明けたものの恋心――煩悩が完全に祓われることはなく、今もなお彼は苦しんでいる。
 なぜだ。どうしてだ?
 認めたくはない。自分の隠れた邪な性を。
 何とかせねば……。
 しかし、
「ダメじゃ!」
 威勢の良い声。歳に似合わぬ、あるいは異様なほどに似合いすぎた老人の声。
「そんな……」
「そなたに修行など無理じゃわい!」
 スィヤーフを睨み据える老人――竜神官ラルターク。執事のようでありながら、鎧でも着れば老将にも見えなくはないだろう。刻まれた皺の数だけ、戦場を潜り抜けて来たかのような老練さが伺える。同じほどの知性もまた。
「だが、俺は……」
 それでも食い下がるスィヤーフ。
「ダメじゃ、ダメじゃ! わしは忙しい。他の者に頼めっ!」
「でもラルターク殿じゃないと……」
 引き下がってはいけない。そう思えた。
 救い出して欲しいのだ。この苦しみから。
 そのためならどんな修行にも耐えられる。
 だが師となるべきラルタークの方は、完全に憤っており、
「ヤウシナを困らせておいて、よくもそんなことが言えるわ!」
 その怒鳴り声は強く激しい。
 ヤウシナというのは恐らくあの番兵のことだろう。あれも見ていたのか?
 それにしても凄まじい殺気だと、スィヤーフは思った。
 危機感さえ感じる。醜態――客観的に考えれば醜態であろう行為――を見られた時に感じるそれとは比べものにならぬ、本当の命の危機。
「それは謝る。だから……」
 スィヤーフは静かに頭を下げた。
 だがラルタークの睨みは止まない。目を合わせていなくとも、感じる鋭い視線の刃。
 沈黙が続く。激しい重圧がスィヤーフを襲う。
 果てしなく刻みの遅い時間は、時の流れが一定ではないことを知らしめる。
 動くことも出来ぬ苦痛。地獄。
 決着までには、彼にとっては恐ろしいほどの時間を費やすこととなる。


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 セフィードは獣王区にいた。
 今朝の朝食後、珍しく外出するらしい兄に、ゆき先を聞いておいた。
 最初は、どこでも良いだろという答えが返って来たが、しつこく訊いていると、観念したように教えてくれた。
 青竜館だそうだ。
 竜将軍ラーシャートの住む赤竜館と対を成す竜神官ラルタークの住居である。
 魔竜王区は海王区のように、王と神官や将軍が同居する「宮」がなく、魔竜城、青竜館、赤竜館の三つで構成されている。
 それにしても、何をしにいくのだろうか。
 セフィードは考えた。
 青竜館といえばラルタークがいる。魔竜王ガーヴの執事でもあるラルタークは、実に老練で老獪な男だが、知識豊富は豊富である。良い知恵を貸してくれたりもするだろう。
 ラルタークに会うのだろうか。
 それなら会う理由は……。
 そうやってしばし考えていると、ふと一つの仮説が立った。
 その仮説が正解だと思った時、彼は獣王区に向かっていた。


 冥王区へはよくいくが、こちらへは滅多にいくことはない。
 彼は今、大自然の中にただ一つ聳え立つ巨大な建造物――獣王神殿を眺めていた。
 神殿とはいえ、けして神を奉っているのではない。奉っているのは魔王シャブラニグドゥそのものだと訊いた。
 森との調和の取れる石造りの建物だが、その高さは異様である。まさしく巨大な塔だ。
 窓は一切ない。正面側の壁にある入り口の他には、中と外を繋ぐものはない。
 壁一面には巨大な細工が施されている。
満月の挟んで対峙する二匹の蛇。満月には人型のシルエットが浮かんでいた。
これは神殿のシンボルらしいが、意味は全く分からない。
特に気にすることはなく、神殿内部へと入っていった。


 唐突な来訪も、高位魔族であるセフィードだからこそ歓迎された。
 お陰ですぐにゼロスと面会することが出来た。
感謝するよ――入り口の受付嬢にそんな言葉を投げ掛けて、セフィードはエレヴェータに乗り込んだ。
 何とも文明的な神殿だ。
 優雅な西洋の城をイメージして造られた海王宮とは違い、獣王神殿は非常に機械的な造りをしている。
 魔道の技術を応用して造られた様々な施設や機械。それがこの建物に無機質なイメージを与えている。
 本当にどこが神殿なのだ。セフィードはそんなことを何回も思っている。
 神殿らしい区域は確かに神殿的なのだが、他の場所がこうでは、あまりありがたみを感じない。
 まあ実体のある――むしろあったと言うべきだろうか――魔王シャブラニグドゥの神殿だとすれば、神秘性はそれほど必要ないのかも知れないが……。
 チリンと音が鳴ってエレヴェータの扉が開く。
 扉の外の通路は薄暗く無気味であった。
 それでも初めて見る場所ではないのだから、平気で歩くことが出来た。
 セフィードはゼロスの部屋にまで来ると、金属性の扉を遠慮なくノックした。
 少々ノック音が雑なのも気にしない。
「セフィードさんですね。入ってください」
 返事はすぐに返って来た。
 同時に扉が自動で開く。上下左右の四方向にスライドするところが妙に文明を感じさせるため、セフィードはそれをかなり気に入っていた。
 また室内にはゼロスがいた。
 部屋はさほど広くはない。
 部屋には観葉植物が置かれている他は、すべて機械類に支配されている。
 入り口の他にも扉が二つ。確か応接間と寝室だ。
 ゼロスは黒い椅子に座り、コンピュータに向かっている。
 彼はセフィードが入って来た途端に、振り返って、
「こんにちは」
「こんにちはゼロス」
 ゼロスは満面の笑みを湛えている。いつもこうだが。
「何か御用ですか?」
「用がなかったら来ないよ」
 セフィードはそう言ってゼロスに近付いてゆき、
「お願いがあるんだ」
 悪戯げな声で囁く。
「ふふっ、お願いですか」
 ゼロスはさらに悪戯げな表情を浮かべた。
 セフィードは頷いて、
「ちょっと青竜館の方までいってくれないかなあ?」
「これまたどうして?」
 訊ねるとセフィードは含み笑いをした。
「あのことは……忘れてないよね」
「あのこと、とは?」
「一年前のことだよ」
 そう。セフィードはゼロスのある秘密を握っていた(このエピソードについては別の機会に語られると思う)。
 ゼロスの牙城はあっさりと崩れた。だがまだ笑みは残っていた。
「分かる? 君は僕には逆らえない」
 セフィードは、追い討ちを掛けるように声を落として言う。
「それで?」
 ゼロスは簡単には揺らがなかったが、まあ良い。
「兄様がいるんだ」
「スィヤーフさんですか」
「うん。あの馬鹿で愚鈍なスィヤーフ兄様だよ」
 ゼロスはセフィードの碧眼をしばし眺める。
「お茶でも出しましょうか?」
「僕はアップル・ジュースで良いよ」


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「ううっ、冷たい」
「何を言っておるか!」
 スィヤーフの弱気な声に対し、ラルタークの怒鳴り声。
 青竜館の裏手の森を、真っ直ぐに抜けたところにある小さな滝。だがその流れは急速であり、まさしく激流と呼ぶに相応しい。
 さらにそれだけではなく、魔力によって極限まで水が冷やされており、身体に染み込んで来る冷気は尋常ではない。
 事実、氷よりも冷たい温度だ。普通に冷えた水ならば凍りついている。
心なしか、水の音さえ騒々しく聴こえる。そして、ラルタークの声はさらにやかましい。
「まだまだ。後三時間じゃ!」
 滝壷は崖の輪郭と、半円形に配置された石の内側にある。一種のプール状と言える。不思議に水は溢れ出てることはない。
 正面には飛び石が三つ置かれており、それを越えると、ちょうど激流の真下に着く。そこにも座るための石が一つ置かれている。
 スィヤーフはそこにいた。上半身は裸、下半身にタオルを巻いただけの格好で、随分と哀れに見える。
「…………」
 表情はどんどん深刻となっていく。息苦しい。
 死ぬのではないか? 本気でそう思える。
 戦争でも、これほど苦しい思いをしたことはない。いやそれは虚偽だろうが、とにかくそれほどに感じられたのだ。
 地獄。そういえばあれに似ている。
 スィヤーフはラルタークの睨みに約三時間も耐えて、ようやく修行することを許してもらえたのだ。
 もしやあれも修行の一環だったのだろうか。
 だがこの修行は、先ほどのに似ているが、それとは比べものにならぬほど苦しい。
 ……俺はこんなことを望んでいたのか?
 被虐体質じゃないのか? いやそんなはずはない。
 それに、これで本当に煩悩が祓われるのか? 
 限りなく疑問だ。今は滝に打たれる苦しみがそれを打ち消してはいるが、修行から解放されてもなお、あの苦しみから逃れ続けられるのであろうか。


 それから一時間ほど経った。
 だが本当に一時間なのだろうか?
 そういえばラルタークの睨みの時も、それほどの時間が本当に経っていたのだろうか?
 時の流れは一定ではない。
 感覚的な存在である魔族にとってはなおさらだ。
 もしもまだ一時間さえ経っていないのならば、三時間とはどれほどの時間なのだろう。
 耐えられるのか? 生きていられるのか?
 とにかく一時間ほどの時が過ぎた。
 妙な視線を感じるようになったのはその頃だ。
 不思議な視線だ。刺されるような不快感というものはあるのだが、感じるものがその限りではない。
 蘇って来るのだ。
 ……あの煩悩が。
 すると視線の正体は……手紙の主?
 二日後に会うこととなっているその人が、この近くに潜んでいるのだろうか?
「ほらほら、気が乱れておるぞ」
 付き添ってくれているラルタークの叱咤もほとんど耳に入らず、その視線を必死で探っていた。
 どこにいるのだろう?
 見てはいけないという気持ちにもなったが、好奇心は背徳心を打ち砕いていた。
 お陰でラルタークには三度も棒で叩かれた。
 激痛が走った。
 ただ棒で叩かれたとは到底思えぬ、果てしなく凄まじい痛みだ。
 当然、ただの棒ではないのだろうし、水で濡れている肌には一層効くのだろうが、それでも信じられないほどの痛みだった。
 三時間。スィヤーフにとっては十時間ほどにも思えた時間が過ぎて、ようやく滝壷から解放された。
 次は禅を組まされた。休む暇もなく、である。
 先ほどまで打たれていた滝の、さらに裏手にある小屋でである。
 すでに午後を回っていたが、食事をせずとも生き延びられる魔族なのだから、昼食などは出なかった。
 やはりあの棒で打ち据えられる。
 気が乱れていると言われるが、気を乱していないと確信出来る時でさえ叩かれる。
 ただの陰湿なイジメと変わらない。
 もしかしたらセフィードよりも、意地が悪いのではないだろうか?
 スィヤーフはラルタークが恐くなった。
 今度からは会うことを避けよう。
 そういえば、ゼロスなどはラルタークに会うことを避けているらしい。
 また痛みが襲って来た。
 だが声は上げず、グッと堪える。
 声は上げてはいけないという暗黙のルールが、設置されているような気がしたのだ。
 小屋は暑いし、ラルタークは陰湿である。
 それに禅など初めてだ。
 とにかくこの修行もまた地獄であった。
 禅を組んだまま六時間、その後スィヤーフはまた滝に打たれることとなった。
 すでに黄昏時である。またもや三時間。修行が終わった時には、すでに闇の帳が落ちていた。
 さらに追い討ちを掛けるように、夜通しのラルタークの説教。意味はほとんど理解出来ない。そして眠る暇もなく、早朝マラソンに駆り出された。
 さらにこの日も滝、禅、滝、説教と繰り返される悪夢。
 こうして、ようやくスィヤーフは解放された。
(……はあ)
 残ったのは凄まじい疲労。確かに煩悩も吹き飛んだが、喜ぶことは出来ずにいた。
 まだ暗い森をとぼとぼと歩く海王将軍の姿を、木漏れ陽に微かに照らす。
 絶望的に深い森。だが空間を渡る気力さえもなかったスィヤーフは機械的に前進を繰り返す。
 思い出すのは悪夢のような修業体験。
 ……ああ、やはりこんなことをしなければ良かった。無理矢理頼むんじゃなかった。
 今でもまだ後悔する。
(こんなに……苦しいとは……)
 やがてスィヤーフは、歩き疲れて草の褥に倒れ込んだ。


 …………………さん。
 …………ヤーフさん。
 ……スィヤーフさん。

 
「大丈夫ですか?」
 闇に包まれた世界が揺れている。
 誰かが彼を揺さぶっているのだ。
 誰がいる? スィヤーフはおぼろげな意識で考えた。
 ラルタークではなさそうだ。
 ならば……。
 だが思考も正常には働かない。
 ただ分かることは、誰かが自分を揺さぶっていること。自分は疲労のあまり倒れ込んだこと。この二つだ。
「起きてくださいよ」
 ……起きられるものか。疲労という名の枷にて、大地に繋がれているのだ。
 だが相手は一向に帰ろうとしない。誰だか分からない謎の人物は……。
 ん!?
 一瞬、スィヤーフに一つの答えが提示された。
 そうだ……あの時の視線。
 感じる。似ている。
「ゼロス!」
 スィヤーフは飛び上がった。
 疲れなど忘れ、鎖をちぎるような勢いで、一気に起き上がる。
 いきなりの反応に驚いたゼロス。
「ななな、何でここに?」
 焦って咄嗟に繰り出す質問を、彼は辛うじて受け止め、
「それは、ちょっと用事がありまして」
「そ、そうか……」
「どうしたんですかスィヤーフさん?」
 ゼロスの視線がスィヤーフに降り注ぐ。
「ああ、いや……」
 スィヤーフは視線をそらした。まだ……焼き付いている。
「本当に変ですよ」
 しつこく覗き込んで来るゼロス。スィヤーフの目はまたもや逃げた。……激しい熱を感じて。
 それから両者が黙り込む。
 ただ視線の方は休まずに、ゼロスの目はスィヤーフを追い、スィヤーフの目はゼロスから逃げていた。
 そしてスィヤーフは思い切ったように、
「そういえばな……」
 そう切り出す。
「何でしょう?」
 景気良く反応して来るゼロス。このテンポもまた……。
「て、て……」
「手?」
 やはり言えない。スィヤーフはそれ以上言うことが出来なかった。
 やがてスィヤーフは逃げ出すように別れを言い、ゼロスは意味ありげな視線を投げ掛けて、両者は別れることとなった。
「約束は忘れないでくださいね」
 最後の言葉は、スィヤーフの胸にずっと残っていた。


 海王宮のどこからも、平和記念公園を見下ろすことは不可能である。
 午後三時。
 午前中には帰宅したスィヤーフは、昼食を多めに摂った後、よく閉じこもっている自室に入り込み、仮眠をとっていた。
 このまま約束の時間が過ぎてしまえば良い。
 だが眠りは浅く、数十分おきに覚めてしまう。
 あの手紙の約束の時間。
(……あいつが来る)
 スィヤーフの言うあいつとは、紛れもないあの獣神官ゼロスである。
 彼にとっての恋文の差出人。
 スィヤーフの煩悩の地獄に陥れた張本人。
(俺にそんなケはないはずなのに……)
 だが修行を経た今でも、まだ完全に煩悩は抜けきっておらず、さらに今朝ゼロスと出会ったせいで、それは一気に再生を遂げた。
 緊張。早鐘を打つ鼓動。
 逃れることは出来ないのか?
 放っておけば、必ず平和記念公園にいってしまうだろう。意志の弱いスィヤーフならば、絶対に。
 そしていってしまえば最期。彼は堕ちて朽ち果てるだろう。
 恐るべくはやはり、あの恋文であろう。
 あの魔力を持ったかのような文章こそが、スィヤーフを真に悩ませたのだ。
 それと、あのチョコレート。あれもまた曲者だ。
 この二つさえなければ、ゼロスに惹かれるなどありえなかっただろう。
 だがそんなことを言っても遅い。
 恋文は読んだし、チョコレートも食べた。修行をしてしまったのと同じで、後悔してももう遅いのだ。
(どうする?)
 運命の時は刻々と近付いている。
 逃れることなど出来ない。
 ……ああ早く眠れてくれ。


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 午後三時五十二分。ノーチェは平和記念公園にいた。
 平和記念公園はそれほど広いものではない。
 円形のこの公園は全体を森に包まれており、園内の地面は石畳で構成されている。
 円周のすぐ内側には、十三個の椅子が並べられており、中央には魔王シャブラニグドゥの像が立てられている。
 今、公園には彼女以外、誰もいなかった。
 まだ陽は高い。気温は高そうだが、風が少々強いので、それほど暑くは感じられない。
 今日は聖服ではなく、純白のドレスを着ている。ドレスといってもそれほど動き難いものではないが、派手ではあるため、妙な噂を立てられているかも知れない。
 だが、そんなことはどうでも良い。
 今日、彼に会えるのだ。
 きっと来てくれると信じている。
 海王将軍スィヤーフ。きっと来てくれるはず。
(本当に……来てくれる?)
 そうだ。彼はまだいない。
 もう三時五十四分。だが来る気配はない。
(まあ……少しくらいなら)
 ベンチに座り、時を刻む。ゆっくりと、ゆっくりと。
 そして約束通り、四時にはスィヤーフが訪れた。


「……来ちまったな」
 小さな呟きも、鮮明に聴こえた。
 ノーチェは嬉しくなった。
 自分から声を掛ける勇気がない彼女は、スィヤーフの接近をただ待った。
 静かな公園に、彼とただ二人。
 近い未来を想像する。妄想する。
 ひとりでに顔が綻んでいく。そして薄紅色に染まっていく。
 スィヤーフの足音。静かに刻まれる。
 一歩、一歩と確実に近付いて来る運命の瞬間。
 彼女の心の中で、祝福の多重曲が鳴り響いた。
「……ノーチェ」
 そしてついに、スィヤーフが口を開いた。
「…………」
 ノーチェはしばらく躊躇った後、
「何……?」
 スィヤーフはノーチェの瞳を見詰める。
 ノーチェは息を飲んだ。
 来るのか? リアルな妄想。
 だが口付けではなく、訪れるのは言葉。
「……ゼロス知らないか?」
 その瞬間、ノーチェは崩壊した。


 冥王宮に帰ったノーチェを出迎えてくれたのはアマネセルであった。
 彼女は、入り口の巨大な門の前に立っていた。
 そしてノーチェの暗い顔を見るなりに、
「お帰り」
 そう言って肩を叩いてくれた。
「……ただいま」
 小さな声でノーチェが返事をする。
「どうだった?」
 ノーチェがアマネセルの脇を抜けて、門の中に入ろうとした瞬間、そんな声が掛かった。
「え?」
 戸惑うノーチェ。
「まあ良い。残念会でもするとしようか?」
「それは……どういう?」
「フラれたんだろう」
「えっ!?」
 遠慮の欠片もない言葉だと思ったが、それはノーチェにとっては真実だ。
 それにしても、なぜそれを知っているのだろうか?
「やはりな。だが……気にするなよ」
 気にするなと言われても、ショックはやはり大きい。しかもアマネセルにそのことをはっきりと言われ、ダメージはさらに膨れ上がっている。
 表情は、今にも雨が降らんばかりの曇り空。
 心の傷は簡単には癒えまい。
「でも……」
 ノーチェがそう口にすると、
「大丈夫だ。愛を受け入れてもらえなかったといって、友情が失われるわけではない。これからチャンスなどいくらでもある。
姉、お前は強い女だ。すぐに立ち直れるはずだ。フラれた痛みを強さに変えろ。何度も何度も挑戦することだ。簡単には諦めるなよ」
 分かったな。という言葉にノーチェは頷いて、冥王宮の門の中に消えた。
 

 ノーチェは冥王宮の右側にある黄昏の塔で一夜を過ごした。
 それから彼女はスィヤーフのことを忘れ、その代わりに恋に生きることを自らに宣言した。
 それこそ、自分が強くあれる生き方だと思ったのだから。


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 ゼロスとアマネセルの登場によって、ようやく真相を知ったスィヤーフはついに煩悩を捨てることが出来た。
 手紙の差出人はゼロスではなかったのだ。
 チョコレートもノーチェの手作りだそうだ。
 安心した。同時にゼロスへの想いは幻の如く消え去った。元々幻想だったのだ。
 しかしノーチェに冷たい目で見られてしまったのは確かだ。これからは少し距離が置かれることだろう。
 手紙が書き換えられたという行為は、許しがたいものであった。
 犯人はセフィードしか考えられない。状況的にも疑わしいし、動機もある。
 そして筆跡鑑定によって、手紙がセフィードによって書き換えられたものだと証明された。
 スィヤーフはセフィードを問い詰めた。
 

 それは果てしない年月の中で、唯一スィヤーフがセフィードを殴っても、海王ダルフィンに叱られなかった日である。
 アマネセルも折檻に加わり、三日三晩の地獄を終えて、ようやくセフィードは罪を償うことが出来た。


 この事件は、千五百年後の今では当事者の誰もが忘れているが、この事件は少なからずも彼らを変えた事件である。


(おひまい)


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14887後書オロシ・ハイドラント URL2003/8/11 20:08:31
記事番号14821へのコメント

後書。


遅くなってしまい申し訳ございません。
これも、陰摩羅鬼の瑕から引用をしたかったという野望ゆえにです。
早急に最終チェックを行い、神魔英雄伝説の三章以降もすぐに投稿していきたいと思います。


ちなみにこの物語は、主役格にも関わらず本編ではあまり描かれていないキャラクタ達を描くようにしてみました。
特にノーチェがそうです。
スィヤーフもセフィードもです。
神魔英雄伝説では、ノーチェ、アマネセル、スィヤーフ、セフィードが重要なキャラクタとなりますので。


次回は覇王軍を中心としたものを書き、またスィヤーフに握られたゼロスの秘密の話もいつか書きたいと思っています。
それでは、読んでくださった方に最大級の感謝を……さようなら。