◆−レスボスの桜−ハイドラント (2004/7/2 18:12:09) No.16538
 ┣●5月――リナとアメリア●−ハイドラント (2004/7/2 18:14:56) No.16539
 ┣●5月――枝垂桜●−ハイドラント (2004/7/2 18:16:32) No.16540
 ┣●6月――レスボス島●−ハイドラント (2004/7/2 18:17:06) No.16541
 ┣●6月――仮面●−ハイドラント (2004/7/2 18:18:15) No.16542
 ┗あとがき−ハイドラント (2004/7/2 18:19:18) No.16543
  ┗ホラーっぽい感じもしますね−エモーション (2004/7/4 22:50:39) No.16551
   ┗Re:遅れて申し訳ございません−ハイドラント (2004/7/10 23:55:41) No.16569


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16538レスボスの桜ハイドラント 2004/7/2 18:12:09




 注意!
 本作は女性の同性愛感情という要素が含まれております。
 まあほとんど感情だけなわけですが、それでも苦手な方は避けてください。
 ちなみに現代もので、また改行はやや少なめです。
 また短編としては少々長いので何回かに分けて読むことをご推奨致します、筋は結構単純ですから。


 ――レスボスの桜――


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16539●5月――リナとアメリア●ハイドラント 2004/7/2 18:14:56
記事番号16538へのコメント

 ●5月――リナとアメリア●


 学校が終わると、あたしは誰よりも早く校舎を出た。もう午後四時になるが、五月の空はまだまだ明るい。
「リナさーん、待ってくださーい」
 自転車置き場へ向かっている途中、そんな声に反応して首を後ろに向けると、コンクリートの地面を白いスクールバッグを抱えて、こちらへと走って来る少女の姿が見えた。一学年下の白馬京子(はくば・きょうこ)だ。
 あたしは立ち止まって京子が追いつくのを待つ。
 京子は愛嬌のある丸顔で、髪はブラックのショートカット、何となく夏の田舎を舞台にしたドラマやアニメに出て来るような少女が身に着けていそうなイメージのある、白いワンピースとサンダルが、非常によく似合っていて、独特の存在感を放っている。
 それに対し、あたしの方はといえば、セミロングの髪はライトブラウンに染めているものの、服装は、ブラックのショートTシャツとブルージーンズ、靴は白のスニーカーという比較的オーソドックスで飾り気のないもので、彼女といると地味にさえ見えて来そうだ。
「相変わらず元気ね、京子」
 京子があたしの横に並ぶと、あたしは笑顔を浮かべて言った。
「だからアメリアって呼んで呼んでください、っていつも言ってるじゃないですか」
 京子は頬を膨らませ、可愛らしい声で抗議して来る。その顔はかなり幼げで、高校生には到底見えない。
「やよ。恥ずかしい」
 あたしはそう言って、視線を京子から自転車置き場へ移し、歩き出す。すると京子は少し早足になって、あたしを僅かに追い抜くと、あたしの顔を覗き込んだ。
「全然恥ずかしくないですよ。いつも呼んでたじゃないですか。ねえ、リナさん」
「それは小学校の頃のことでしょ。それに、リナって呼ぶのもいい加減、止めてよ。いつも言ってるじゃない」
 あたしの名前はリナではない。浅田冬陽(あさだ・ふゆひ)という。家から自転車だと三十分は掛かる、レヴェルが低くて誰でも入れることと、制服がない私服校であることくらいが特徴の無名私立高校の二年生だ。
「だから、それは今さら無理ですよー。良いじゃないですか」
 周りに響くような声を上げる京子。ふと後ろを見れば、うちの生徒達の群れが見える。もしかしたら今の声が聴こえたかも知れない。そう思うと少し恥ずかしくなった。
「だめ。とにかく嫌なのよ、分かった?」
「分かりません」
「いい加減にしてよ」
 あたしはやや口調を強めた。そして歩くペースを上げる。
「あっ、待ってください」
 京子も早足になった。あたしはさらに速度を上げる。そして走り出し、京子も走り出した。
 自転車小屋に辿り着くと、ジーンズのポケットから鍵を取り出して、自転車の錠を外し、自転車を外に出した。自転車を校門に向けると、同じく自転車を小屋から出し終えた京子を溜息で出迎える。京子はそれを笑顔で返した。
 あたしと京子は小学校の時からの友人で、歳は一つ違うが、仲はかなり良く、親友と呼んでも良いほどだ。
 それほど勉強はしていないはずなのにあたしとは比べものにならないくらい成績が良い京子は、本来ならうちの市内にある県内トップレヴェルの公立校(うちのような田舎では、基本的に私立校より公立校の方がレヴェルが高い)に受かっているはずだったが、大方の予想を裏切って落ちてしまい、滑り止めとして受け、余裕で受かっていたうちの学校に通うこととなった。
 しかし、本人は別に落ち込んでおらず、むしろあたしと同じ学校に通えることを嬉しく思ってさえいるようだった。そしてあたしの方にも、正直なところ、嬉しいという感情は確かになくもなかったので、あたし達は同じ学校に通えることを祝うパーティーをささやかにおこなうこととなり、あたし達の友情はますます深みを増した。少なくとも表面上は。
 高校生にもなって、リナ、と小学校時代のあだ名で呼ばれるのは勘弁して欲しいが、それはもはや半分諦めていることで、さっきの会話も実は単なる日課のようなものに過ぎない。
 ちなみにリナと言うのは、あたしが小学生高学年の頃にクラスで流行っていたファンタジーアニメのヒロインの名前である。当時のあたしはどうやらそのヒロインに性格が似ていたらしく、それでそんなニックネームをつけられた。だが、実際のところそんなに似ていたのだろうか。リナは確か、さばさばした性格で、乱暴なところもあり、損得勘定も強いが、意外と優しい面もある、といった感じの少女だったはずだが、当時のあたしは単なるがさつ女だった気がする。
 また京子のアメリアというのも、やはり「スレイヤーズ」の登場人物である。あたしが周りから呼ばれるようになったのに対し、彼女は自分から名乗り出した。それが公式に認められたのは、単に彼女もアメリアも性格が明るかったからだろう。アメリアは正義感の強い少女だったが、彼女の方はそうでもなかった。
 自転車に乗ったあたし達は、校門に続く緩い坂を下る。桜並木の通りが、目の前を横切っている。すでに花の咲く季節は終わっていて、桜の木々は青々とした葉を茂らせている。
「今日はどっか寄ってく?」
 あたしは自転車のハンドルを、帰り道である道の左側に曲げ、右横にいる京子の方を見た。
「そうですね。リナさんにちょっと見せたいものがあるんですが……」
 そう言って京子は、自分の自転車のハンドルを右の方に向けた。
「それってどんな?」
「それは秘密です」
 あたしが尋ねると、京子は握った右手の人差し指だけを立て、口の前に持って来るポーズを取って言った。そういえば、こんな風なポーズでこんなことを言うキャラクターも「スレイヤーズ」にはいたはずだ。
「着いて来てください」
 京子はさらにそう言うと、自転車を右に向かって漕ぎ出す。重たいスクールバッグをカゴに入れているため、最初は危なっかしく見えたが、すぐに安定した。ちなみにあたしの方のカゴはといえば、荷物を全部学校において来たので空っぽだ。
 あたしはすぐに京子を追った。道のあちこちでは青々とした葉桜が夕方近い時刻のしっとりとした風を受けて気持ち良さそうに揺れているが、彼女はそんなものなど全く無視して進んでいく。
 少々進んでから後ろを振り向くと、当然のことながら他の生徒達が自転車を漕いでいる姿が見られた。一人だけ猛スピードで漕いでいる男子生徒がいて、やがてあたし達に追いつき、そして追い抜いていった。一年の時に同級だった食いしん坊の海野渡(うんの・わたる)だった。
 海野は、いつも教室に食べ物を持ち込んで、教師連中に怒られていた馬鹿男で、体育の成績はやたら良かったけど、他は全くダメだった。東京へいってプロのシンガーソングライターとなった歳の離れた彼の姉は、かなり良い大学を出ているらしいが、彼には大学は無理だろう。
 確かこんなキャラクターも「スレイヤーズ」にはいた。相違点は数え切れないほどあるが、リナのパートナーだったガウリイに似ている気がする。とはいっても、彼とは特別仲が良かったわけではない。
 まあ、あたしも英語や数学ではしょっちゅう赤点を取り、そのせいで数学教師には「真っ赤な夕陽」という愛称だか蔑称だかよく分からず(蔑称だったのだろう)、センスが良いのか悪いのかも分からない(多分、悪いのだと思う)あだ名をつけられた馬鹿者だから、馬鹿同士気の合うところがなかったと言えば、嘘になるけれども。
「どうしたんですか?」
「ううん、別に」
 

 それから何十分か漕ぎ続けただろうか。ポケットに入れておいた携帯電話で時刻を確認すると、四時半少し前だった。京子はいきなり、「この中です」と言って、古そうな木造の家に挟まれた狭い路地に入っていった。戸惑いと不安を覚えたが、まさかここで帰るわけにはいかないので、着いていく。
 狭い道は途中で枝分かれしていた。建物と建物の距離が小さく、また道はほとんど陰になっていて普通の場所よりは暗いため、ロールプレイングゲームとかに出て来る地下ダンジョンを探険しているような気分になる。だが京子は迷うことなく、複雑な分岐の中から一つの道を選び取る。
 分岐の後にはまた分岐があり、さらにその先にも分岐があったが、京子は一度も迷うような素振りを見せなかった。単に通り抜けるだけならそれで普通だが、目的地はこの路地の中にあるらしいとのこと。そうなると彼女はちゃんと道を記憶しているということになる。
「まだ着かないの?」
 しばらくしてあたしは尋ねた。もう随分と奥深くまで来ている。
「いえ、もうすぐです」
 京子はこちらを安堵させるような微笑みを交えて答えた。
 その言葉からは一分も経っていないだろう、あたし達はその場所に辿り着いた。そこは今までと変わらない路地の中。しかしまるで異世界のようだった。
 あたし達はそこで自転車を降りた。

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16540●5月――枝垂桜●ハイドラント 2004/7/2 18:16:32
記事番号16538へのコメント

 ●5月――枝垂桜●


「どうです? 綺麗だと思いませんか?」
 京子の声は妙に遠く感じられた。
 あたしはただ見つめていた、その場所を。狭い道の角に面し、木の塀に囲まれた、けして安っぽくはないが、あまりにも古びていて、どう見ても空き家にしか見えない木造家屋の敷地内。凋落の気配が包む暗い日陰の世界の片隅で、妖しく輝くそれを。
 自然のものでありながら、あまりにも異様なため人工物の匂いさえ漂わせた薄紅色。その特異な色彩が、確かな実体を持ち、微かながらもゆらゆらと動いてさえいる。
 それは桜だった。すぐ右隣の二階建てくらいはある空き家と同じくらいの背丈を持つ枝垂桜。けして大きいものではないが、化け物のように巨大な桜にも負けないような美しさと不思議な妖しさを、この桜は備え持っている。それに何よりも、この桜は葉桜の季節に花を、咲き残りとは思わせない強さを持って、目一杯咲かせているのだ。
 あたしの身体はいつしか震えていた。それが感動によるものなのか、畏怖や恐怖によるものなのかは分からないが、原因が桜にあることだけは間違いない。
 ふと京子の方を向いて見る。彼女もうっとりとした様子で桜を見ている。だが、あたしよりは幾分余裕があるように見えた。
「近くにいって見ますか?」
 京子はあたしの方を覗き込むようにして訊いて来た。空き家の敷地とはいえ、勝手に入って良いものではないが、その時のあたしは半ば理性を失っていた。思わず頷いてしまう。
 あたしは京子の続いて門を潜り、恐る恐る敷地に侵入した。地面には草が無秩序に生い茂っていて、あたしはともかくワンピースの京子は足を切ってしまいそうだった。空き家は近くで見ると、二階の窓ガラスが割れていることなどが分かり、ますますボロボロに見えた。
 桜は敷地の左手の方で静かな風に揺れている。意外とすぐ近くにあったが、その近寄ることを拒むような美しさが、間を隔てる距離を無限にも思わせた。
 一際強く吹いた風に、桜は花びらを散らし、美しい薄紅色の花びらは、あたし達の方にも舞い降りて来た。桜の雨とかシャワーというには随分と量が乏し過ぎたが、それは仕方がないだろう。
 あたしは流れて来る花びらを一片、掴み取った。桜の樹全体を妖艶な大人の女性だとすると、この花びらはまだ幼い少女のようだ。母と娘か、女主人と召使いか、何にせよ、小さな花びらは大きな桜に支配され、囚われている。何となくそんなことを思った。
 先に桜の方へと進んでいったのは京子の方だった。彼女は生い茂る草など全く気にしていない。あたしは少々遅れて彼女の後を追った。
 桜の真下は陰になっていて暗く、その暗さは桜には似合っていた。あたしはざらざらした樹の幹に、やや躊躇いつつも背中を預け、立ったままの京子と向かい合う形となった。
「ここは……ネットで知ったんです。あるサイトの掲示板に書き込みがあって」
 しばらくして京子は口を開いた。ネットやサイトという言葉は、不思議とこの世界観にマッチしているように思えたのだが、それは気のせいだろうか。
「なるほどね。……ってことはその書き込みをした人は、この辺の人ってこと?」
「そうなりますね」
「でも、そんな書き込みだけでよく見つけられたわね」
「確かに探すのには骨が折れました。でも探した価値はあったと思います」
「確かに綺麗だしね」
 あたしは桜を見上げた。京子の立つ場所には時折花びらが舞い降りて来る。その時、京子はそれを掴み取り、しばらく指で愛撫すると、地面に向けて投げ捨てた。そして、くすりと笑う。
「でも、実はそのサイト、オカルトとか都市伝説とかそういうものを扱っているところなんです」
 京子がオカルト好きであるというのは意外だった。今までにそんな片鱗を見せたことはなかったからだ。だが考えてみればそれほど驚くようなことではない。女の子が少しくらいオカルトに興味を持っていたとしても、それは別に特段不思議なことではないからだ。
「って、ことはこの桜、何かいわくがあるってこと?」
 京子は静かに頷く。あたしは僅かに薄ら寒さを感じると同時に、やはりと思った。これだけ美しく奇妙な桜だ。伝説の一つや二つはあって当然だ。
「で、どんないわくなの?」
 あたしは若干の恐怖を押し込めながら、言葉を口にする。
「それはですね、こういう伝説です」
 京子は少し間をおいて語り出した。
 この家には何十年か昔、一人の男が住んでいた。その男は無職だったが、早くに亡くなった父から受け継いだ遺産があり、かなり裕福な暮らしをしていた。
 その男には恋人がいた。美しい花の精のような女だった。しかし彼女が男に身体を許すことは一度もなかった。
 実はその女には愛人がいた。いや、むしろ男の方は単なるお金持ちの友人という風にしか見ておらず、むしろ本命はこの愛人の方だと言えた。しかもその愛人は異性ではなく同性、つまり自分と同じ女性であった。
 女は実は同性愛者、俗に言うレズビアンだったのである。当時、同性愛は世間一般に浸透しておらず、今以上に禁忌とされていた。そのため、これが発覚したらどうなるだろうか、と女は不安でいた。それでも女性の恋人同士というのは、一見は単なる友人にしか見えないため、この浮気はなかなか男には気付かれなかった。
 それでも二股の生活が崩壊する時は確実にやって来た。女が浮気をしていることと、その浮気相手が彼女と同性であることに気付いた男は、彼女に対して強い嫌悪感を覚えた。その嫌悪はやがて殺意へと転換され、ついにある日、彼は彼女を殺害し、死体を庭の桜の樹の下辺りに埋めて隠した。女は遺体が発見されなかったために、失踪扱いされた。
 それから数日後、男の家に女の愛人がやって来た。愛人は、男のことは大分前に女から聞かされて知っていたため、男が女の行方不明に何か関係しているのではないかと推測し、少々探りを入れてみようと考えたのである。しかし、これが文字通り、命取りとなった。
 愛人は、自分は女の友人であると名乗ったが、男はそれが嘘であることを即座に見抜いた。そして女と同じように、愛人も殺害し、女と同じ場所に埋めた。愛人の方も、遺体が見つからないために失踪とされ、男の罪が発覚することはなかった。
 だが、二人の女性が埋められてから、死体のある場所辺りに生えていた桜は、以前とは比べものにならないほどの美しい花を咲かせ、しかも他の桜が花を散らす頃になっても、なお咲かし続けるようになった。まるで男の罪を告発するかのように。
男は毎年、その桜を見るたびに罪の意識に苛まれ、この場所から逃げ出したくなる思いに囚われつつも、逃げ出せば死体が発見されてしまうのではないかと思うと、それも出来ず、苦しみの果てに病を患い、若死にした。
 その後、この家は持ち主の早死にといういわくによって買い手がつかず、かといって取り壊されることもなく、ただ暗い路地の中、滅びに至る眠りに就いている。
 この話を聞き終えたあたしは、少し気味が悪くなった。京子の語り口はそれほど上手いものではなく、話自体もそれほど大したものではなかったが、あたし達は今、その話の舞台となった場所にいるのである。平気でいられる方がおかしい。だが、京子は意外と平然としているように見えた。
「いかがでしたか」
 疲れた様子がないかのように立ち続けている京子の問いに対し、「そうね」と言ったあたしは、鮮やかな桜とくすんだ地面を見比べながら、しばし考え、それからまた口を開いた。
「伝説だから仕方ないけど、作り話っぽいわね。変なところが多いわ」
 それは一応本音ではあるものの、気味の悪さを払拭するために出した言葉でもあった。
「そうですか?」
「そうよ」
 とぼけたような調子の京子に、あたしは少し強めに言い、そして、
「まず、男が女の浮気に気付くまでの経緯がはっきりしてないでしょ」
「でも……、それははっきり分かっている方が作りもの臭いと思いますけど」
「じゃあなんで、かえって、どうでも良いところが詳しく分かってるわけ? 愛人が自分は女の友人だ、って名乗ったところとか」
「それはきっと書き込みをした人が勝手につけ加えたことですよ」
「じゃあ浮気に気付くまでの経緯は何でつけ加えなかったの?」
「それは思いつかなかったからなんじゃないですか?」
 京子の反論は穏やかだが、反応が素早い上に、こちらの言葉に揺らぐことがないため、強固な鉄の壁を思わせた。思えば、彼女に口ゲンカで勝てたのは三回に一回程度だった。
「まあ確かにそれはそうかも知れないけど、おかしいところはまだあるわ。男が女を殺した動機よ。同性愛者だからって普通殺す? いくら昔の話だからって変よ。動機が理解出来ないわ。現実はミステリでもサイコスリラーでもないのよ」
「でも、現実だからってリアルな事件ばかり起こるとは限りませんよ。ミステリーみたいな事件が起こったって別に不思議じゃありません。現にたまには起こってます」
「じゃあさ、死体を桜の樹の下に埋めたのは? 何でそんな場所に埋めるの? この話を作った人間が、梶井基次郎でも読んでたからじゃないの?」
 自分でも少しムキになっていたと思う。早口でまくし立てた。
「カジモトジロウ?」
 ああ、そうか、普通の現代っ子は知らないか。梶井基次郎というのは昔の作家で、彼の書いた作品の中に、「桜の樹の下には屍体が埋まっている」という印象的な文句で始まる散文詩(それとも短編小説か?)がある。あたしは、京子にそのことを説明した。
 だが結局、「偶然ですよ。それに死体を埋めた男の人が読んでいたのかも知れません」と返され、結局、彼女に作り話と認めさせることは出来なかった。桜の下の土を掘り返せば真偽は簡単に判明するのだが、そんなことは死んでもやりたくない。
「でも、作り話なのか実話なのかっていうのは結局のところ、どうでも良いことなんです」
 彼女は桜を見上げつつ言う。
「それよりもこう思いません? 桜の花が綺麗に、そして長く咲くようになったのは、二人の愛の力のお陰じゃないかって?」
 その時の京子の表情は、恐ろしいほど恍惚としていた。
「それは、どういう……」
「二人の女性ですけど、男の人に殺されて、身体を冷たい土の中に埋められて、やっと自由になれたんじゃないでしょうか。身体から抜け出て魂だけとなった二人は、成仏することを拒み、どこへもいかず永遠に愛し合うことを望んだ。魂同士の愛を、咎める者はどこにも誰もいない。自由になった二人の愛はますます深いものとなっていった。きっとそうです。そして二人のその愛の力こそが、桜の樹に美しく、そして長く咲き誇る花を咲かせるためのエネルギーとなっているのでしょう」
 純粋な愛を糧としているにしては、この桜の姿はあまりにも異様過ぎるとあたしは思ったが、何も言えなかった。京子の言葉に、表情に、圧倒されてしまったからである。
「ねえ、冬陽さん」
 その言葉はあたしとは違う誰かを呼ぶものに思えた。彼女があたしを本当の名前で呼ぶのは随分と久しぶりのことだったからだ。
「冬陽さん」
 またその名が呼ばれた。だが今度は明らかにあたしに向けられたもので、それはあたしの心の奥底にある何かを激しく揺さぶり、熱く焦がした。苦しみに似た感覚を覚えたが、苦痛には思えなかった。
「公立の受験のことなんですけど、実はあれ、落ちたのわざとなんです」
 京子は唇を微かに歪ませ、言った。彼女は笑ったのだ。
 一緒の学校に通えることを祝うパーティー。あの時の光景がまるで目の前で進行しているかのようなリアルさで浮かび上がって来た。
 三月の初め、桜の季節にはまだ早いため、桜を見ながらという望みは叶わなかったが、大きな潟を取り囲む公園のあまり人の来ない場所で、楽しく語り合いながら、ジュースを飲んで、お菓子を食べ、ビールや煙草にも挑戦した。二人ともどちらも全然だめだったが。
 その時の京子は心から楽しそうにしていた。事実上、志望校の受験に落ちたことになっているのにも関わらず。
「私、冬陽さんと同じ高校が良かったんです。でもお父さんもお母さんも反対して、私が必至でお願いするまでは、滑り止めに受けることさえ許してくれなかったんです。絶対に公立に受かれ、お前にはそれだけの実力があるんだ、って言われて。正直、殺意さえ感じましたよ」
 最後の言葉を口にした時の彼女はまるで悪魔のようだった。正義を愛するアメリアだなんてとんでもない。彼女は仮面を被っていたのだ、自ら意識して。いつからかは分からない。もしかしたら小学校時代からずっと被っていたのかも知れない。
「冬陽さん」
 またその名前だ。心の奥底が震える。あたしはその時、京子に対し、恐怖にも似た感情を覚えていた。もはや桜の美しさも、足元に死体があるのではないかということも、もう頭にはなかった。
「この桜にはもう一つ別の伝説があるんです」
 もう聞きたくなかった。耳が壊れてしまえば良いとまで思った。
「この桜の樹の下で愛を誓い合った二人は永遠に結ばれると言われています。しかもそれは女性同士限定らしいのです。どうです? 一つ目の伝説と合わせて考えると、私の考えもそんなにでたらめじゃないと……」
 彼女が言いたいのはそんな言葉ではない。そんな言葉では……。悔しいが、あたしにはすでに分かっていた。
「冬陽さん」
 まただ。あたしは必至で唇を動かそうとする。しかし、まるで凍りついているかのようで、全く無駄に思えた。しかし諦めるわけにはいかない。凍っているなら溶かさなければ。
「あ、あ、あたし……」
 やっとのことで声は無様にもどもっている。だが気にしている暇はなかった。
「ちょ、ちょっと用事が出来たの」
 作り笑いをしてそう言った時、身体はまるで川の流れに押されるかのように、動き出した。京子の静止を振り払い、背の桜からも逃げるように走り出す。
 門のところまで辿り着いた時、恐る恐る振り向いて見たが、京子はまだ桜のところに立っていた。あたしはすぐさまポケットから鍵を取り出すと、震える手で自転車の錠を外し、飛び乗って、全速力で漕ぎ出した。空にはまだ明るみがあったが、妙に頼りなさを感じた。
 それにしても、ずっと京子と一緒にいたのにいつ用事が出来たのだろうと、あたしは苦笑した。だが、笑いは後半震えに変わった。
 京子があたしに対して持っている感情は、友情ではない。そう、恋愛感情なのだ。彼女はそれを仮面の下に隠していた。

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16541●6月――レスボス島●ハイドラント 2004/7/2 18:17:06
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 ●6月――レスボス島●
 
 
 五月も終わりに近付くと、雨の降る日が多くなった。そして六月に入ると逆に雨はあまり降らなくなり、気温も上昇して、空も大地も少しずつ夏の色に染まり始めた。それでも何日かに一回は必ず雨が降った。
 この頃にはすでに、あたしには男が出来ていた。といっても恋人とか彼氏とかいうよりは、特別仲の良い男友達といった感じで、デートなどはするものの、身体の関係を持つ気にはなれなかったし、独占欲のようなものも生まれなかった。
 彼の名前は外園冬樹(ほかぞの・ふゆき)という。最初は陰気そうな男だと思っていたが、話してみると意外とそうでもないことが分かった。あらゆる音楽や小説に親しみ、インターネットでの情報収集を正真正銘の趣味とするらしい博識な彼とは話していて楽しかった。少々風変わりなところがあるのは欠点と言えるが、それにしたってまだ充分に許容の範囲内である。
 彼を「スレイヤーズ」のキャラクターにたとえるとすれば、怪物と無理矢理合体させられた悲運の魔剣士ゼルガディスだろうか? いかにも暗い過去とかを背負っていそうに見えるところとかが似ている気がする。
 彼はクラスの多く男女から「フユキ」と呼ばれていて、あたしは「フユヒ」と呼ばれることが多かったから、彼と一緒にいると、名前を呼ばれた時、自分が呼ばれているのか、それとも彼が呼ばれているのか一度では分からないことがたまにあった。そのことはあたし達がつき合うことになったエピソードにも深く関わっている。あまり語りたいことではないので、そのことはここでは省略させてもらうが。
 冬樹と親しくなるにつれて、京子と何かをする回数は確実に減った。これは京子の方が遠慮して距離をおいているからなのだが、あたしが京子を避けていたからでもある。あの枝垂桜を見たあの日のことは暗黙の内に、なかったことになっていたが、それでも京子と話しているとそのことを思い出しそうで、恐かったのだ。


 それは、あの日からちょうど一ヶ月後に当たる雨の降った日のことであった。ちなみに曜日は金曜日で休日の一日前ということになる。
 その日、あたしは冬樹と一緒に下校することとなった。自転車に乗り、傘を差す。傘差し運転は何でも道路交通法違反になるらしいが、これで来てしまったのだから今さら仕方がないし、冬樹だってそうするつもりでいる。
 冬樹とは途中で別れた。家のある方角が違うのだ。学校の前の道を学校側から見て左側にいくというところは同じであるため、それほど離れているわけではないが、それでも着いていくと十数分ばかり帰宅が遅れる。晴れの日ならともかく雨の日は避けたい。
 ちなみに冬樹の家は、立派な洋風の三階建てで、ボロくて地味な和風二階建ての我が家とはまるで別世界の存在のようである。
 あたしは冬樹と分かれた後、自転車を漕ぐペースを上げた。傘を差しても入り込んで来る雨が鬱陶しかったからだ。
 途中でもうたまらなくなって、寄るつもりのなかった新古書店に避難した。あたしがよく通う店だ。
 店内にはいつものように音楽が流れていた。多分最近の曲でテレビとかで聴いたことのあるものだったが、題名もアーティスト名も知らない。ただそこそこ良い曲だとは思った。
 あたしはまず小説コーナーを見回り、それからレディースコミックを立ち読みする。読み疲れたらまた小説コーナーを巡り、また戻って来て立ち読みする。それを何回も繰り返した。
 そして、雨も収まって来たようなのでそろそろ帰ろうかと思った時、あたしはその曲に出会った。
流れて来るメロディ。それほど有名な曲ではないが、初めて聴く曲ではない、CDは持っていないが、大分前に何回か聴いたことがある。曲名は「桜の妖精」。シンガーソングライター海野由布子(うんの・ゆうこ)の曲だ。海野由布子とは、一年の時に同級だった海野渡の姉である。
 静謐な前奏、囁くような出だし。そして、メロディが展開されていくにつれて、歌声は明るさを持っていく。風の音が聴こえる気がする。春の暖かく優しい風だ。
 そしてサビに入る。鮮やかに咲き誇る桜を讃える歌声は、狂気を感じさせるほど美しく、この歌を歌う海野由布子こそが、「桜の妖精」なのではないかとまで思えて来た。
 あたしは震えていた。以前聴いた時には平凡な曲としか感じられなかったが、今は違う。そうあの日を経た今は。彼女はこの曲を自分の最高傑作と評したらしいが、今ならそれにも頷ける。
 やがて、あたしの目の前にあの日の映像が浮かび上がって来た。二つの伝説を持ち、葉桜の季節に妖しく咲き誇る異様な枝垂桜、そしてその下で笑っていた京子の姿。
 ――冬陽さん。
 突然、名前を呼ばれた気がした。京子がそこにいるような気がした。あたしはその瞬間、激しい恐怖を感じた。なぜこれほどまでに恐れるのだろう、というくらい。
曲が終わるより先に店を抜け出し、自転車に飛び乗った。
 ――冬陽さん。
 京子の幻はなかなか消えてくれない。あたしはそれを振り切るため、スピードを上げた。自宅に辿り着くと、一目散に二階の自室へ駆け込み、ベッドに入って布団を被り、耳を塞ぐ。疲れもあったのかも知れない、京子の幻を頭から追い出したと思った時にはすでに、あたしは眠りに落ちていた。
 

 あたしは夢を見た。日本から遠く離れた場所。海に浮かんだ大地。ああ、ここはどこなのだろう。
 潮風が髪をなびかす。異国の地を踏み締める。あたしを歓迎するたくさんの人達はすべて女性で誰もが美しく気高い顔立ちをしている。石造りの建物に招かれ、ディナーにまで招待された。大時代的なダイニングルームで振る舞われる上品な料理の数々。窓からは暗い夜の海が見え、遥か遠くには、他の島の明かりだろうか、ぼんやりと黄色い光が灯っていた。
 夕食が終わり、あたしは一人の女性に寝室まで案内される。だが寝室に着いた途端、彼女はいきなりあたしに抱きついて来た。あたしは狼狽して暴れ回る。どうにか振り払うことに成功した、と思った時、彼女の顔は突如京子のものに変化した。
 ――冬陽さん。
 京子は妖しい笑みを浮かべた。いつの間にか、舞台が変化していることに気が付いた。そう、ここはあの場所だ。京子に案内されて来たあの空き家の敷地内。その証拠に視界のすぐそばには桜が見える。あの枝垂桜が……。
 ――綺麗だと思いませんか?
 いきなり真下の地面が盛り上がる。あたしはバランスを崩して倒れた。思わず目を瞑ったあたしの身体に何かが触れた。冷たい感触だ。あたしは地面を適当に這い進んでそれから逃れ、そこで初めて目を開けると、立ち上がって、後ろを振り向いた。そこには骸骨が立っていた。二体いて、しかも二体は抱き合っていた。あまりにもシュールで異常な光景だ。
 京子が近付いて来る。あたしにとってはなぜか二体の骸骨よりも、彼女の方が恐ろしく感じられた。あたしは後退ったが、後ろに逃げ道はない。木の塀があるだけだ。
 追い詰められたあたしは絶叫した。その叫びが世界を壊していく。笑い続ける京子も、二体の骸骨も、枝垂桜も、そしてこのあたしも皆、闇に飲まれて消えていった。


 あたしははっとなって飛び上がった。身体中に汗がべっとりと滲んでいる。息が荒い。
 時計を見るとすでに午後十時を過ぎていることが分かった。どうやらかなり長い時間寝ていたようだ。
開いた窓から外を見ると、そこはすでに闇の世界。白い街灯が寂しく光を放っていた。どうやら雨は降っていない。湿気を孕んだ風が、身体に染み込む。悪夢の映像はまだ脳裏に残っていたが、恐怖の残滓は時間とともに薄れていった。
 とりあえず風呂に入りたくなったあたしは、窓を閉めて部屋を出、階段を降りて、一階のリビングでお菓子を掴みながらテレビを見ていた母に風呂が沸いているかどうかを尋ねた。母は億劫そうに首を縦に振った。母は雑誌のライターをやっているのだが、鋭く荒んだ顔つきが妙に職業とマッチしている。ちなみにサラリーマンをやっている父は単身赴任中で家にはいない。
 少々冷めていた湯を沸かして湯船に入ったあたしは、恐らく簡単には眠れないであろう今夜をどう過ごすかについて考えを巡らせた。
 思考を巡らせていると、ふと一つのことに気がついた。
――島。そう、あたしは知っている。夢で見た島の名前を。いつか京子が言っていたはずだ。確か何だったか。記憶の草むらを掻き分ける。確か、始めはレだ。
 レ――島。だめだ、それ以上は思い出せない。しかし、もう少し考えてみることにしよう。天井を見ながら、適当に言葉を吐き出して、それが記憶に合致しないかどうか確かめる。その繰り返しの末、あたしは記憶を取り戻した。そうだ、レスボス島だ。
 その名前を忘れないように頭を刻みつけ、頭と身体を洗って風呂を出る。バスタオルで身体を適当に拭くと、まだ水分の残っている身体に新しい服を身に着け、バスタオルで頭を擦りながら、自室に駆け戻った。
 勉強机の上におかれている、去年の誕生日に頼み込んで買ってもらったノート型パソコンの電源を立ち上げる。立ち上がったら早速インターネットに接続し、大手検索サイトの検索ボックスに「レスボス島」というキーワードを入れ、検索を開始する。
 検索結果、表示されたリンクは四百件ほど。早速、それらしいページにアクセスしてみる。表示された文章は思いのほか短いものだったので、読み通すことにした。
 その文章によると、この島はギリシャとトルコに囲まれたエーゲ海に浮かぶ島で、紀元前六世紀頃、サッフォーという詩人が住んでいたらしい。彼女は同性愛者で、島の少女達を集め、ハーレムのようなものを築いていたという。彼女の名前にちなんで、女性同士の同性愛を意味するサフィズムという言葉が生まれたが、その島での、女性同士の同性愛は、彼女が生まれるずっと前から盛んだったのだという。ちなみにレズビアンという言葉の語源はこの島の名前らしい。
 文章を読み終えたあたしは、一息吐いて再び調べ作業を開始する。キーワードを「サッフォー」に変えてみたり、「レスボス島 サッフォー」と検索結果を絞り込むためにキーワードを二つ並べたりもした。
 だが、意外と分かったことは少なく、その中で重要と言える情報は、当時のヨーロッパ社会では女性の同性愛はひどく忌み嫌われており、発覚した際には捕えられ、火焙りにされることさえあったということ、くらいなもの。まあレスボス島について研究しているわけではないから、これだけでも充分なのだけど。
 一階に降りてコーヒーを淹れて来たあたしは、今度は海野由布子について調べてみることにした。やはり同じサイトの検索システムを利用することにする。
 「海野由布子」のキーワードで検索を開始すると何と、一番上に表示されたのは本人の運営するサイトへのリンク。早速あたしはアクセスすることにしたのだが、気掛かりなのはそのサイトのタイトル、「レスボスの桜」というのだ。どうしてもあの桜のことを連想してしまう。
 アクセスは迅速におこなわれた。だが、現われたページに書かれていたのは「当サイトは一身上の都合により閉鎖致します」という文句。その下に書かれていた日付は4月23日となっていた。まあサイトの閉鎖など大して珍しいことでもない、とそのことは気にならなかったが、「レスボスの桜」というサイト名はなかなか頭から離れてくれなかった。
 その後、海野由布子に関するページをいくつか見て回ったが、それほど有名なアーティストではないためか音楽の軽い批評くらいしか見当らず、目も大分疲れて来たので、調べ作業はこの辺りで打ち切ることにし、あたしはパソコンの電源を切った。
 目はしばらく使えそうにないので、音楽を聴くことにする。ベッド付近の床におかれた、古臭い上に安物の赤いラジカセにこの前買ったマーラーの「大地の歌」をセットする。
 重厚で荘厳なメロディは、それほど好みというわけではなかったが、異国の情景らしきものが時折ぼんやりと浮かんで来て、なかなか良い曲だなあ、とは思った。
 「大地の歌」は非常に長い曲で、最後まで聞き終わった頃には時刻は零時を過ぎていた。それでも睡魔はまだやって来ないようだったので、目の疲れも癒えてきたと思ったあたしは本棚を漁ることにする。
 梶井基次郎の短編集が目についたが、読み返す気にはならなかったため、代わりに「スレイヤーズ」を手に取った。これはアニメ「スレイヤーズ」の原作小説で、読み易くて気軽に楽しめるのが特徴である。
 全部250ページほどあったが、読み始めて三十分ほどで半分以上は読むことが出来た。明日は土曜日で休日とはいえ、いい加減寝なければ生活リズムが狂ってしまうため、読書はこれまでにしておくことにする。「スレイヤーズ」はデスクにおいておき、あたしは部屋の電気を消し、布団に入った。だが、夕方寝すぎたせいか、なかなか眠ることが出来ない。
 枝垂桜……二つの伝説……京子……悪夢の中の二体の骸骨……レスボス島……サッフォー……火焙り……海野由布子……「レスボスの桜」という閉鎖されたサイト……頭の中をたくさんの言葉とイメージが駆け巡っていく。あたしは、今にも京子の声が聴こえて来るような気がして、身を震わせ、両耳に指を突っ込んで栓をした。思えば、子どもの頃に夜の静寂が恐ろしくて、こういうことをした思い出がある。
 本当に長い夜だった。だがそれもいつの間に終わり、あたしは眠りへと誘われた。

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16542●6月――仮面●ハイドラント 2004/7/2 18:18:15
記事番号16538へのコメント

 ●6月――仮面●
 

 翌日の目覚めはけして悪いものではなかった。悪夢を見ることなかったし、起床も午前八時と、休日としてはけして遅い時刻ではなかった。
 朝食を食べ終えたあたしは、しばしの後、携帯電話で冬樹に連絡して、デートの約束を取りつける。待ち合わせの場所はあたしの家と彼の家のちょうど間くらいにある大きな公園の入り口付近で、時刻は午前十時三十分。
 あたしは「スレイヤーズ」の続きを読み始め、十時十五分頃には家を出た。
 公園に着いた時、すでに冬樹はそこにいた。
 黒いロングTシャツと、ブラックジーンズ、スニーカーのブラックという黒ずくめのいでたちで、木陰のベンチに足を組んで座り、文庫本を読み耽っている。
 近付き、ちらりとその表紙を覗いてみると、「猫とふんどし3」という文字が目に入った。どうやらタイトルらしい。いかにも可笑しそうな本だが、読んでいる彼の表情は真剣そのものだった。正直、こちらが笑えて来る。
「待った?」
 あたしが声を掛けると、冬樹の白く整った顔がこちらを向いた。いかにも陰気そうに見えるが、なかなかの美貌である。
「いや」
 黒い髪を掻き揚げながら、短く呟く。少々素っ気ない態度だったが、なぜか冷たさというものはそれほど感じさせない。
 あたしが冬樹の隣に座ると、彼は本をポケットに仕舞い込んだ。そして空を見上げる。あたしはその視線を追うと、青く澄んだ空と白い雲が目に入った。晴れた日ならいつでも見れる光景だが、不思議とそれが綺麗なものに思えた。
 空を見る時間が終わると、あたし達は公園の散歩を始めた。緑の大地を走る砂利道を、歩きながら、会話を交わす。
 彼は自分や自分の周りのことについて語るのを好まない性質らしいため、彼との会話の話題は専ら音楽や小説などに関するものとなるのだが、彼とあたしは結構好みなどが合うため、けして一方的な会話になったりはしない。それはこの時も同じであった。
 正午になると、あたし達はいったん公園を出てファミリーレストランへ向かった。あたしはミートパスタとポテトサラダを、冬樹はなぜか持参していた一味唐辛子をふんだんに混ぜた激辛カレーを食べた。
 午後はショッピングのため、駅前の大型スーパーに向かった。あたしは金欠状態なので何も買わなかったが、結構裕福な状態にあるらしい冬樹も新刊本を一冊買っただけだった。ちなみにどうでも良いことだが、その本のタイトルは「猫とふんどし外伝」であった。
 夕方になり、あたし達は再び公園を訪れた。近場でデートをする時は必ずこの場所で会って、この場所で別れなければならないというルールを冬樹が勝手に決めたからだった。
 雨の前兆なのか、この頃には空は曇っていて、青空の下では活き活きとして見えた芝生や木々も、まるでリストラされた中年のサラリーマンのように見えた。
 適当なベンチに腰掛け、本日最後の会話を始める。そして、それも終わり、いざ解散という時になって、あたしは海野由布子のサイトにいったことがないか尋ねてみた。実は今回のデートの目的は、このことについて質問するためでもあった。
「一応地元アーティストのサイトだから、何回かは見たが、それがどうしたんだ?」
 冬樹はしばし間をおいて答えた。
「いや、ちょっとね。……で、どんなことが載ってたの?」
 あたしは期待と不安を胸に押さえつけながらさらに尋ねた。
「そうだな……」
 冬樹は空を見上げ、腕を組む。
「プロフィールとか音楽のこととかが中心だったな。後、桜のことも書いてあった」
「桜!」
 あたしは思わず声を上げていた。
「どうしたんだ?」
「ううん、何でもない。……詳しく教えて」
「あそこのサイトの名前、確か「レスボスの桜」っていっただろ。その由来について長々と書いてあった」
 あたしが話すよう促がすと、彼は簡潔な口調で、一つの物語を語った。それは、あの日京子が話したものと全く同じ、一人の男と二人の女、それに桜が登場する話であり、そのためにあたしは、まるであの日が再来したのではないかという錯覚を覚えた。
 やはり「レスボスの桜」はあの桜のことだったのだ。そういえばあの日、自転車に乗った海野渡が向かっていたのは、桜を目指していたあたし達と同じ方向だった。凄いペースで漕いでいたのですぐに見失ってしまったが、彼の住む海野家が桜のすぐ近くにある可能性はけしてゼロではない。
「その枝垂桜を海野由布子は「レスボスの桜」と勝手に名付けたわけだ。レスボスというのはその昔レズの女がたくさんいたとされている島の名前だ。知ってるか?」
 あたしは頷く。つい昨夜調べた。
「だが、単にこの話があったからつけたというわけではないらしい。もう一つその桜には噂があるようでな……」
「噂……?」
 京子の言ったもう二つ目の伝説のことが頭をよぎった。だが、彼の語ったのはその伝説よりもなお衝撃的なことであった。
「その桜はレズの女を惹きつける力があるらしい。確か、異様なほど綺麗に見えるそうだ。海野由布子はその桜が綺麗に見えたことから、自分はレズなんじゃないかと書いていた。去年の五月頃に俺もその桜を探して見てみたんだがな、綺麗だったが大したことはなかった。……普通の枝垂桜だな」


 そんな馬鹿な……。
 ――ごく普通の枝垂桜だ
 自宅に戻ってからも、あたしはその言葉を忘れられずにいた。
 女性同性愛の聖地、レスボス島。女性の同性愛者を惹きつけるがゆえにその名前を冠された桜の樹。
 あたしは震えが止まらなかった。
 あたしにはあの桜が美しく見えたのだ。そう、異様なほど。
 京子はあたしに対し恋愛感情を持っていたことはまず間違いない。だが、それだけではなかったのだ。恋愛感情は、あたしの方にもある。
 あの日、桜の樹の下で、京子の仮面の下の素顔を見た時、京子の本心を知った時、あたしはそのことに無意識に気付いたのだ。だがそれを認めたくなかった。認めてしまうのが言いようもないほど恐ろしかった。だからあたしはそれを否定した。否定して心の奥底に追いやった。本心に仮面を被せた。
 ああ、あたしも仮面を被っていたのだ。ただし京子とは違い、周りに対してではなく自分に対してであり、その時期も桜を見るまでではなく見てから、だが。
 京子が愛を告白することを恐れ、逃げ出したのも、あの日を思い出すのを恐れ、京子を避けたのも、被せた仮面が剥がれ、本心が解放されて、京子への恋愛感情を認めてしまうことを防ぎたいという無意識の意志があったからなのだ。
 しかし、海野由布子の「桜の妖精」を聴き、あの日の映像を鮮明に思い出し、京子の幻の声を聴いた時、あるいは悪夢を見終えた時、それとは全く対立する、被せられた仮面を剥がし、その下の素顔を表に出したい、という意志が、同じ無意識の領域内に誕生した。あたしにレスボス島や海野由布子について調べせ、「レスボスの桜」のことを冬樹に尋ねさせたのは、こちらの意志だ。
 あたしの心に潜んでいた二つの矛盾する無意識の意志、仮面を守ろうとするものと、それを剥がそうとするもの、勝利を手にしたのは後者であった。
 その証拠に、あたしは自分の本心に気付いた。あたしはすでに京子への恋愛感情を認めざるをえない状態にある。それがどんなに恐ろしく、忌まわしかろうと、それが現実なのだから。
 だが、この勝利はけして良い結果をもたらしはしなかった。
 あたしが京子に恋愛感情を持っているからといって、簡単に京子にそれを打ち明けられるとは思えない。あたしにはそれだけの勇気はない。
 それに京子の方がもう一度告白をして来るという可能性もあまり期待出来ない。本当のところは分からないが、彼女はすでに恋愛感情を捨て去ってしまったような気がする。
 そうなると、あたしはこの恋愛感情を今度は意識的に隠し続けなければならなくなる。京子と同じように、今度は自分ではなく周りに対して仮面を被り続けなければならない。いつか恋愛感情が本当に消えてくれる日まで。
 まるで自分が桜の花びらになったかのようだ。恋愛感情という桜の樹に支配され、囚われている。いつか解放される日を夢見ながら。
 ああ、あたしは、古代ヨーロッパの女性同性愛者達のように、捕えられて火焙りにされることも、あの伝説に出て来た女のように、殺されて土に埋められることもない代わりに、恋愛感情に苦しみ続けなければならないのだ。
 窓の外には雨が激しく降っていた。あたしの脳裏には、この雨を浴びてなお、花を散らさず鮮やかに咲き誇る桜の姿が浮かび上がった。


 ――レスボスの桜(了)――

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16543あとがきハイドラント 2004/7/2 18:19:18
記事番号16538へのコメント


 あとがき


 この話を書こうと思ったきっかけが何であったのかは実ははっきりとは覚えていません。
 梶井基次郎の「桜の樹の下には」を読んだのは、これを書き始めてからのことですから。
 でも何が書きたかったのかははっきりしています。
 最後の一文です。
 つまり主人公の頭の中に桜を咲かせたかったわけです。
 それにしてもこの話、一人称形式での記述には向いてない話だったかも知れません。
 特にクライマックスの部分とかは少々不自然な感じがして仕方ありません。
 けれども、三人称に変えようという気は今のところないです。
 面倒臭いというものありますが、一人称形式で書かれたこと話に少なからぬ愛着を感じているからです。
 まあ問題があるのなら、何とかしますけれども。
 それでは、この辺りで失礼致します。
 
 余談1…サッフォーが同性愛者であるというのは、私が使用した百科事典(ブリタニカのやつ)によると、何の根拠もない話だそうです。レスボス島に女性同性愛者がいたのは事実らしいですが。
 余談2…話の舞台は大体うちの地元をモデルにしております。もちろんあんな桜はありませんが。
 余談3…やっとHPに取り掛かることが出来ます。夏休みが始まる頃までには完成させられるかな?

 

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16551ホラーっぽい感じもしますねエモーション E-mail 2004/7/4 22:50:39
記事番号16543へのコメント

こんばんは。

最初はキャラの名前で呼び合う、所謂「なりきり」の女の子の話かと思いました(笑)
「レスボスの桜」……タイトルにも書きましたが、読み終えてホラーっぽい
感じもするなあと、思いました。
ラストの「あの桜を美しいと思うのは同性愛者」という部分で、心理的にじわじわと
追い込まれていく感じがしまして。
あとは冬陽が、「自分は同性愛者である」という「暗示」を、自分でかけて
自分で自分を追いつめていっているような、そんな怖さがありましたから。

冬陽がユリな方でなくても、最初に京子から感じ取った(自分にとっては
異質な恋愛感情からくる)異様な雰囲気の中、桜にまつわる都市伝説を聞いたら、
かなり強い印象として記憶に残ると思いますから、何かの拍子に、ふと鮮やかに
連想したり、奇妙な形で夢で見ても、まあ、不思議はないでしょう。
気になって調べるのも、別におかしくないとも思います。
ですが、最後の「あの桜を……」が、それらすべてを「実は自分は……」と
決定してしまう、暗示の実行コマンドのようで、その辺りが怖いと思いました。

ちなみに、都市伝説の大半は「体験した本人しか知らない、または分からない事が、
ここまで具体的に、広く知られている事自体おかしい」という点で、
大概が作り話と言い切れます。
「不幸の手紙」における「文章は絶対に変えてはいけないのだから、
最初から同じ文面だったことになる。では、最初にこの手紙を書いた人は、
何故途中で◯◯さんが止めたことを知っているのか? 何故その不幸の内容を
具体的に知っているのか?」と同じ理屈ですから。
作中の都市伝説で言えば「男性が女性二人を殺したことは、誰にも知られていないはずなのに、
何故ここまで詳しく知られているのか?」ですね。
これが事実で例え死後でも知られていたら、とっくに警察が捜査していて、
遺体が埋まったままなわけないですから(笑)

ただ、分かっていても「もしかして……」とちょっと思ってしまう部分。
そういった部分に、冬陽がじわじわと追いつめられていく過程が面白かったです。
また、個人的には、これは一人称で良かったと思います。冬陽がじたばたしていく感じが、
よく分かりますので。

それでは、ちょっと纏まりの悪い感想になってしまいましたが、この辺で失礼します。

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16569Re:遅れて申し訳ございませんハイドラント 2004/7/10 23:55:41
記事番号16551へのコメント


>こんばんは。
こんばんは。
修学旅行いっていたせいもあり(事前連絡出来ませんでした、すみません)大分、返信遅れてしまいました。
>
>最初はキャラの名前で呼び合う、所謂「なりきり」の女の子の話かと思いました(笑)
まあ京子は完全に「なりきり」していますけどね。本性の方が存在感あって印象弱いでしょうけども。
>「レスボスの桜」……タイトルにも書きましたが、読み終えてホラーっぽい
>感じもするなあと、思いました。
>ラストの「あの桜を美しいと思うのは同性愛者」という部分で、心理的にじわじわと
>追い込まれていく感じがしまして。
>あとは冬陽が、「自分は同性愛者である」という「暗示」を、自分でかけて
>自分で自分を追いつめていっているような、そんな怖さがありましたから。
ホラーに関してはそれほど詳しくないんですが、確かにホラーっぽいものはあるなあと自分でも思ってました。それでも「実は同性愛者だった」というオチ(エモーションさんもご理解されている通り、主人公がそういう答えに辿り着いただけで、本当に同性愛者だったのかどうかは不明なんですが)はホラーとしてはちょっと弱いかも知れないな、と思い、頭の中では一種の幻想小説に分類することにしましたが。
>
>冬陽がユリな方でなくても、最初に京子から感じ取った(自分にとっては
>異質な恋愛感情からくる)異様な雰囲気の中、桜にまつわる都市伝説を聞いたら、
>かなり強い印象として記憶に残ると思いますから、何かの拍子に、ふと鮮やかに
>連想したり、奇妙な形で夢で見ても、まあ、不思議はないでしょう。
>気になって調べるのも、別におかしくないとも思います。
それに冬日があの桜を異様なほど美しく感じ、冬樹が「ごく普通の枝垂桜だ」と言ったことに関しても、単なる感性の違いで片付けられそうですしね。
>ですが、最後の「あの桜を……」が、それらすべてを「実は自分は……」と
>決定してしまう、暗示の実行コマンドのようで、その辺りが怖いと思いました。
この部分は、何かの事件の容疑者が無実なのに「お前が犯人なんだろ」と言われ続ける内に「もしかしたらそうかも」と思い始めるようになるのと似てると言えなくもないかも知れませんね(相違点は多いですけど)。

>
>ちなみに、都市伝説の大半は「体験した本人しか知らない、または分からない事が、
>ここまで具体的に、広く知られている事自体おかしい」という点で、
>大概が作り話と言い切れます。
>「不幸の手紙」における「文章は絶対に変えてはいけないのだから、
>最初から同じ文面だったことになる。では、最初にこの手紙を書いた人は、
>何故途中で◯◯さんが止めたことを知っているのか? 何故その不幸の内容を
>具体的に知っているのか?」と同じ理屈ですから。
そうですね。不幸の手紙ではないですけど、二年程前一時期はやった(?)それの携帯メール版とでも言うべきチェーンメールをもらった時に、「明らかにおかしいだろ」と思いました(それでも相当恐かったですが)。
>作中の都市伝説で言えば「男性が女性二人を殺したことは、誰にも知られていないはずなのに、
>何故ここまで詳しく知られているのか?」ですね。
>これが事実で例え死後でも知られていたら、とっくに警察が捜査していて、
>遺体が埋まったままなわけないですから(笑)
そりゃそうですね。でも本気で恐がってる人は意外と気付かないんじゃないかと思います(これは経験則に過ぎないので他の人がどうなのかは分かりませんが)。
>
>ただ、分かっていても「もしかして……」とちょっと思ってしまう部分。
>そういった部分に、冬陽がじわじわと追いつめられていく過程が面白かったです。
>また、個人的には、これは一人称で良かったと思います。冬陽がじたばたしていく感じが、
>よく分かりますので。
確かにホラーとして見た場合は一人称が良いのかも知れませんね。
私は上の方にも書いた通り、ホラーとしては弱いかなと思いましたので、最後の答えに至るところは「冬陽はこう思った」みたいに距離をおいた書き方をした方が厳密に説明出来そうだから、その方が良かったんじゃないか、と考えていました。

>
>それでは、ちょっと纏まりの悪い感想になってしまいましたが、この辺で失礼します。
いえそんなことはないと思いますよ、こちらこそ、ちょっとおかしな返信になったような気がします、すみません(一応)。
それでは、ご感想どうもありがとうございました。
>