◆−パジャマの樹:第一回−蝶塚未麗 (2006/2/19 15:32:59) No.17512 ┣パジャマの樹:第二回:バベルの図書館−蝶塚未麗 (2006/3/2 00:30:02) No.17543 ┣パジャマの樹:第三回:夏の終わりのト短調−蝶塚未麗 (2006/3/9 00:17:46) No.17547 ┗パジャマの樹:第四回:Death Is A Lonely Business−蝶塚未麗 (2006/3/15 16:52:57) No.17548
17512 | パジャマの樹:第一回 | 蝶塚未麗 | 2006/2/19 15:32:59 |
久しぶりの連載です。 これは細かいミスを気にせず速いペースで続きを書くように自分を仕向ける作戦です。 うまくいくかどうか非常に不安であります。 全体のサイズは今のところ見当もつきませんが、長編と呼べるほどにはならないと思います。 恐らく10回以上続くことはないでしょう(7回で終われればベストです)。 タイトルは谷山浩子さんという人の歌から。 そういう意味では1の方で少し前に書いた「落ちてきた少年」という短編と一緒です。 舞台はアメリカっぽい場所で、スレイヤーズ度はゼロ。 一応ネット検索とかで表面的な知識とかはほんのちょっとくらい仕入れてますが、所詮は適当の域を出るものではありません。 ///////////////////////////////// ねえ君、せっかくだからさ、僕のことを話してあげよう。 2002年当時、僕はまだ11歳の少年だった。 その時のことは今でもはっきりと思い出せるし、当時にタイムスリップして時間を潰すようなこともできる。 だから僕は当時の僕になりきって語ることにしたいんだ。 君は朗読でも聞くような気分で僕の話を聞いてくれればいい。 朗読なんて今時はやんないかも知れないけど。 ――パジャマの樹 The best space to sleep―― クーラーの効いたメルセデスのリアシートに座って僕は窓から外を眺めていた。 まるで夢みたいだ。 あの白い監獄はもう数千億マイルもの彼方。 もうミズ・ダルシアの顔を見る必要もない。 真夏の太陽光の下、細く曲がりくねった道の左右には鬱蒼と繁る木立。 昼間なのに奥の方は薄暗くて何となく死体の一つや二つ埋められてそうな気さえするけど、小奇麗に整えられた偽物の自然なんかよりはずっと僕好みだ。 どうも僕は森というものに妙な憧れを持っているらしい。 小さい頃に読んだ何かの絵本が影響だろうと思う。 白い監獄っていうのは市の養護施設のこと。 7歳の時、両親が交通事故で死んで、引き取り手のいなかった僕はそこにぶち込まれた。 確かにストリートチルドレンになるよりはまだマシだったと思うよ。 ご飯は食べられるし、寝床もあるし、衛生環境が悪いなんてこともない。 でもひどいところなんだ。 まず規則が厳しい。 夜の9時には寝なさい。 朝の6時には起きなさい。 食事はきちんとお行儀よく食べなさい。 自由な時間も少ないし、テレビもあんまり見させてもらえない。 そのくせ教養のためとか何とか言って、ミズ・ダルシアの趣味で退屈なビデオを見せられたりする。 まあそれだけならまだいいんだけど、規則を破った時の罰則も厳しい。 食事抜き、外出禁止……それだけではない。 施設の地下に反省室なんて部屋があったりして、ひどい時にはその中に一晩閉じ込められる。 今時そんなものがあるんだよ。 嘘だと思うかも知れないけど、そうじゃないんだ。 僕も一回入れられたことがある。 そこはとても狭い。 中には硬いベッドがあるだけ。 コンクリートの床と壁。 僕が入れられたのは夏場だから、これは友達の話なんだけど、冬場は毛布を被ってベッドに潜り込んでいても身体がガタガタ震えて、それが運動になって一時は少し暖まるんだけど、汗を掻くから後で余計に寒くなるらしい(ギリギリ凍死は免れたけど、高熱出して三日寝込んだ)。 明かりは小さいスタンドしかなく、とても暗い。 静かなので物音がするととても怖い。 見回りの人の足音も亡霊の足音に聴こえて仕方ない。 その上、反省室には恐怖から舌を噛んで自殺した子どもの亡霊が出るって噂まである。 もちろん普段は誰もそんなもの信じない。 だってそんなことがあったらとっくに事件になっているはずだし、そもそも舌を噛んだくらいじゃ人間(いくら子どもでも)死なないってことくらい誰でも知ってる。 鼻で笑い飛ばすところなんだけど、ここに閉じ込められた瞬間、臆病な未開人に早変わりさ。 職員がわざとやったのか床に赤いしみなんてついてるところがあって乏しい明かりの中ではそれが血の跡にしか見えなくなる。 もちろん泣いても叫んでも誰も助けにこない。 そもそも声自体が届かないんだ。 色んな神様に「助けてください」ってお願いして、終いにはミズ・ダルシアに様までつけてしまう。 そりゃあ何回か入れられれば次第に平気になってくるだろう。 でもそもそも何回も入れられようなんてやつはいない。 一回入れられたらもう二度と規則違反なんてしなくなる。 少なくとも表向きは犬のように従順にしておこうと思うようになるんだ。 すると職員たちはそういう犬になった子どもを奴隷みたいに扱うようになる。 雑用をやらせたりするんだよ。 あっ、ちなみにやらせる、っていうのはもちろん、子どもの方からやりたいって言わせるように仕向けるって意味。 きっと職員たち(特にミズ・ダルシア)は全員サドで、子どもを虐げ服従させることに昏い悦びを感じているのだろう。 本当なら警察とかその他エライ人に訴え出てやりたいところだけど、子どもの身でそれは簡単なことではない。 きっとそう遠くない内に児童虐待か何かでみんなしょっ引かれるに違いない。 僕たちはそんな希望を抱きながら耐え忍ぶしかなかった。 そんな時、神様が僕にだけ手を差し伸べてくれたんだ。 「あらゆるものの90パーセントはクズである」といった作家がいるけど、確かにこんなくそったれな世界にも10パーセントくらいはまともなおとながいるものだ。 ミスター・ディックはどこにでもいるような白人の男の人だった。 彼は27歳らしいけど、外見はそれより若く見えた。 一月ほど前、黒のメルセデスに乗って白い監獄にやってきた(黒のナイトが白のキングにチェックをかけた!)と思ったら、彼は僕に目をつけたらしく応接間みたいな部屋(入るのはその時が初めて)に呼び出されて色々と質問をされた。 彼と話すのは楽しかった。 今の若い人は(僕が言うのも何だけど)本なんて読まないものだと思ってたけど、彼は例外らしく白い監獄の中でも一番の読書家だった僕とは話が合った。 話していて頭のやわらかい人だなと思った。 見た目は若いけどおとなだなとも思った。 メルセデスはあんまり似合わないかなとも。 数日後にまたきて「僕の子どもになって欲しい」と言われた時も、確かにちょっとは迷ったけどすぐ頷いた。 車が急な登りに入った。 「もうすぐだよ、……レイ」 ミスター・ディックがハンドルを左に傾けながら言う。 僕は「はい」と返事をする。 「どうだろう。気に入ってくれるかな、僕の家」 独り言めかして彼は言った。 「多分……」 あそこよりはずっと。 「うん。多分、か。そうか。……君を家族に迎えられてほんとうに嬉しいよ」 彼がこんなセリフを言ったのはこれで何回目だろう。 彼はほんとうに嬉しそうだ。 僕も嬉しい。 この人は実は少年専門のシリアルキラーか何かで、これから僕をなぶり殺しにして解剖して遊んだりするんじゃないかとか怖い想像をしてしまったりもするけれど、それは僕のひん曲がった想像力のせい。 本当のところはとってもわくわくしている。 新しい家庭。 新しい生活。 僕は根っこのところで楽天的な人間なんだ。 ディック家の敷地は広大だった。 ガレージで車から降りて黒い格子門を越えると、緩い登りの坂になっている。 門のところから遠くに見える家まで一匹の細長い白蛇のような道が続いていた。 道の左右には黄緑色の野原が広がっている。 ここら一帯は冬になって雪が積もればスキー場に早変わりだろう(門壁とかにぶつかったりして危ないか)。 別に車で登れないような坂でもないのに、なぜ建物のところにガレージがないのだろう。 雨の日は困ると思うが。 着いた時刻は午前11時すぎ。 太陽光線がまぶしい。 空気は清々しかったが、クーラーの掛かった車内とのギャップでとても暑く感じられた。 すぐにからだから汗が吹き出てくる。 僕は日よけに帽子を被っていたけど、ミスター・ディックはふさふさの金髪を露出させている。 熱中症で倒れるんじゃないかと心配だったけれど、彼は暑さなどちっとも気にしていない様子だった。 これまで僕の周りにいたおとなはみんな暑がりで寒がりで自分のいる環境にぶつぶつ文句を言うことを生きがいにしているようなどうしようもないやつらばっかりだったけど、彼は唯一の例外かも知れない。 ところどころに木陰で本を読むのに相応しそうな樹が生えている。 蛇行する道を登りながら、遠慮がちにそのことを言うと、 「読書なら裏の森の方がいいよ」 確かに家の向こうに樹らしいものの群れが見える。 まあ山奥なのだから森なんて前後左右どっちを見たってあるけど。 この道が永遠に続いていつまでも家に辿り着かなかったら面白いと思ったけど、そんなことが起こるわけはなかった。 もしそんなことが起ころうものなら僕はバテて死んじゃってただろう。 そうしたら、隣で涼しい顔して歩いていたミスター・ディックは、僕のかたわらに屈み込んで、僕のからだを抱き上げ、また歩き出す。 その時にはもう永遠の魔法は解けていて、ミスター・ディックは自分の家に辿り着くと地下の手術室に降りて、僕のからだをさんざんおもちゃにした挙句に、僕から世にも恐ろしい怪物を創り上げる。 怪物となった僕はしばらくの間はミスター(ドクターと言うべき?)・ディックに従順だったけど、ある日、ディック家から逃げ出して街に避難する。 そこで安アパートを借り、密かに人を食らいながら生き延びていくが、やがて秘密捜査官か何かと戦って非業の死を遂げる。 まあそれはそれで面白いかも知れない。 「疲れたかい?」 ミスター・ディックがいたわるように言う。 僕は、(自分で歩かせといて……)と言いたくなりつつも、 「いえ、別に」 「そうか。元気なんだね」 彼はにっこりと微笑む。 「はい、元気は一番のとりえです。あなたも……」 「うん、僕は世界で一番元気だよ。何てったって作家だからね」 「えっ、……作家だったんですか」 それは知らなかった。 「そうだよ。かのフィリップ・キンドレッド・ディックとは僕のことさ」 「まさか!」 だとしたらあのメルセデスはドク博士のデロリアンだったに違いない。 ミスター・ディックはその考えを読んだかのように、 「そう今は1955年。黄金の50年代だよ」 「だったら僕はまだ生まれていないから学校にいかなくてもいいんですね」 「まさしく黄金時代だね」 真っ白な家だった。 大豪邸ってほどではなかったが、僕の住んでいた家に比べれば充分大きな建物だった。 造りは割と現代的だけど、古い建物だということが分かった。 前庭部分に花壇があって色とりどりの花が植えられている。 偽物の自然はあんまり好きじゃないんだけど、本物の大自然の中に偽物をおくというのは面白いと思った。 「さて、この家に入った瞬間から僕たちは本物の親子になるんだよ」 さてプロローグはこれで終わりだよ。 ちょっとこの辺で休憩しよう。 君は全然平気かも知れないけど、僕の方が疲れたから。 何せ人に話をするなんて久しぶりなんてもんじゃかいからね。 え? 本当に1955年にタイムスリップしたのかって? 何言ってるんだい。 あんなのジョークに決まってるだろ。 それとも今ではすでにタイムマシンが発明されてるとでも言うのかい。 あっ、でも確かに君にはちょっと古すぎたよね。 「バック・トゥー・ザ・フューチャー」は当時すでに古かったくらいだからね。 フィリップ・ディックは彼原作の映画化公開されてたからそうでもなかったけど。 どうも当時の僕になりきりすぎちゃったみたいだ。 多分、他にも通じないところはあったと思う。 できる限りは気をつけたいんだけど、でもこればっかりは直せないと思うから、分かんないところがあったら遠慮なく質問してくれればいいよ。 /////////////////////////////////////////////////// お読み頂いた方どうもありがとうございます。 この後も至極適当にいい加減に、それでいて変なところに凝りながら進んでいきます。 エンタテインメントとしての面白さは一切保証なし。 でも作者だけは一人で楽しんでいるというどうしようもない状態です。 今後、世紀の大傑作に変貌する可能性もなくはないですが、私ごときの筆では果たしてどうなることやら。 そういうわけで駄作を恐れぬ勇気のある方だけ続きをお読みくださいませ。 孤独には全く負ける気がしません(笑)。 (でも読んでくれた方がうれしいな) |
17543 | パジャマの樹:第二回:バベルの図書館 | 蝶塚未麗 | 2006/3/2 00:30:02 |
記事番号17512へのコメント 少年が主人公の作品が好きです。 探検や冒険、秘密の隠れ家、夏の田舎町…… あるいは、天体と宇宙への憧れ、鉱物と太古への想い…… この「パジャマの樹」もそういう要素を取り入れ、みずみずしく、ノスタルジックで、かつファンタスティックな少年小説を目指したもの……かというと、ちょっと、というかたくさん首を傾げてしまいます。 やはり筆力の足りないせいでしょう。 特に夏の描写が難しい。 ちっとも夏って気がしないんじゃないかと思います。 だって書いてる私は寒いんだもん。 ああ、冬でも夏の暑さを思い浮かべることができるくらいの想像力が欲しい。 日常生活にもきっと役に立つはず。 /////////////////////////////////////////// ――パジャマの樹 The best space to sleep―― 玄関を入るとリビングだった。 ウッドフロアに花柄のカーペットが敷いてある。 ベージュ色のソファがおかれている。 ふかふかしていて気持ちよさそうだ。 「ご主人様にコーヒーを持っていってくれないかな。淹れるのは僕がやるから」 奥へ向かう途中のミスター・ディックが、振り向いて僕に言う。 「ご主人様?」 「ワイフのことさ。エリス・ディック。我が家の大黒柱だよ」 妻帯者であること自体知らなかった。 そういえば彼のファーストネームも聞いてない。 家がこんな山の中にあるのを知らされたのも彼の車に乗ってからだ。 何でも元は彼の父親の別荘で、死後に遺産としてもらったのだという。 本宅は必要ないので売り払ってしまったのだとか。 「それくらいはやってくれるね、レイモンド」 「はい、ミスター・ディック」 「ダディ、だろ。それが嫌ならトニー」 「フィリップじゃないんですね」 「……トニー・フィリップ・キンドレッド・ディックさ」 お盆に入れたコーヒーをこぼさないように慎重に持って二階にあがる。 奥へ伸びる廊下を進み、ミスター・ディックことトニーに教えられた左手二番目をドアをノックした。 返事はなかった。 ドア越しに小さくカタカタと音がする。 「失礼します」 少し迷ったが、そう言って入ることにした。 殺風景な部屋だった。 エアコンが掛かっていてひんやりとしている。 本棚が二つと武骨なベッド。 窓を閉ざす薄緑のカーテンが部屋をささやかに彩っている。 部屋の隅っこにデスクがあり、黒髪を短くまとめ、紺のサマーセーターを着た後ろ姿が黒い回転椅子に座ってデスクに向かっている。 何か文章でも作っているのか、ノートパソコンのキーボードを猛烈な勢いで叩いている。 僕が近づいていくと、彼女はキーボードを叩く手をぴたりと止め、椅子ごと振り向いた。 「あなたがレイモンド?」 綺麗な声だと思った。 声ひとつとっても、子どもを怒鳴りつけるのに特化したようなミズ・ダルシアの声とは大違いだ。 彼女自身もなかなか綺麗な人だと思った。 化粧っ気はなかったけど、目なんかはとってもコケティッシュでかつキュートだった。 思わず一時間くらい見とれてしまう顔ってほどではないけど、僕の心臓のリズムを若干狂わせるには充分だった。 「あなたが……ミズ・エリス・ディック?」 「ええ。ママって呼ばれるのは苦手だから、エリーとでも呼んで頂戴」 「はい……エリー」 「いい子ね」 目を覗き込まれる。 視線をそらしたかったが、うまくいかない。 髪の毛から頬までをさらりと撫でられた。 思わず背筋がゾクッとなる。 「私は趣味でビジネスごっこやってるの。これを使ってね」 椅子の向きを戻し、画面を差して言う。 「趣味……?」 「ええ、とっても楽しいの。だからあなたのお相手はトニーが中心になると思うけど……許してね」 エリーとの会話は短かったけど、疲れた。 元々初対面の人と話すのはあんまり得意じゃないから、そのせいもあるんだと思うけど。 きっと何かしら魔力を持っているのだろう。 多分、目の中にでも。 隠れて生きる現代の魔女かも知れない。 ビジネスっていうのは黒魔術結社の運営とかだったりして。 昼食は外で取ることとなった。 裏手の森にピクニックにいくことになったのだ。 森を切り開く細い道を三人並んで歩いていく。 立ち並ぶ木々が影を作っている。 時折、涼しい風が吹いてきた。 視線の先には道しかなく、後ろを振り向いてもやはり道しかない。 それはほとんど緑のトンネルだった。 道というものには二つの役割がある。 一つは入り口。 そしてもう一つは出口。 入ると出る。 本当は同じことなんだけど、気持ちとしては全く別物だ。 僕たちはどっちなのだろう。 どこかへ入ろうとしているのか。 どこかへ出ようとしているのか。 多分、入ろうとしているのだと思った。 この道はどこか深遠な場所へ通じているようなそんな気がする。 きっとこの奥にはとても神秘的な場所があるに違いない。 きっと年老いた魔法使いが住んでいて、僕たちにタダで魔法を教えてくれるのだ。 しばらく歩くと開けたところに出た。 そこには円形のスペースになっていて、中央には一本の太い樹が生えている。 その樹はこの森の中でどこか異質な気がした。 別の場所から移植されたのかも知れない。 小さな赤い実をたくさん実らせていた。 樹のすぐそばには背の高い脚立がたたんでおいてある。 多分、実を取るためにあるのだろう。 近づいてみると、幹に小さなうろができているのが分かった。 「そこは昼寝スペースに最適だよ」 トニーが言った。 「子どもの頃はあそこでよく昼寝していたんだ。とても気持ちよかったよ。今の僕には小さすぎるけど、君にはぴったりなんじゃないか」 この静かな場所で本を読み、疲れたら眠る。 何という贅沢なのだろう。 僕たちはこの大きな樹の根元で並んでお弁当を食べることになった。 トニーが脚立に登って、樹からたくさんの実を摘んだ。 実は不思議な味がした。 酸味が強いのに、同時にまろやかな甘みがある。 人によって好き嫌いがありそうだと思ったけど、僕は好きだった。 食べると元々元気なのにさらに元気になったような気がした。 そのうち暴れ出してしまったらどうしよう。 もちろんお弁当もおいしかった。 サンドウィッチにスクランブルエッグ、スコッチエッグにそれからちょっぴりスパイシィなペペロンチーノ。 全部トニーが作ったのだそうだ。 緑のトンネルをずっと歩いていくと、家の左手側に出た。 道はぐるりとC字型になっているようだ。 エリーは仕事(趣味?)に戻り、僕とトニーは図書館へ向かった。 そう、僕がトニーの家にいくことを決めたのは何もトニーのことが気に入ったからという理由だけではない。 地上三階地下一階という、個人のものとしては異様な規模の図書館こそが本当の目的だった。 是非そんな図書館を見てみたかったし、実際にそこで自由に本を読んでみたかった。 図書館の入り口は家の一階、右手側にあった。 ドアを手前に開いて中に入ると、そこはとても広い横長の空間だった。 建物の三分の一くらいは占めているんじゃないだろうか。 赤いカーペットに白い天井。 書架がたくさん並んでいて、さながらプチ市立図書館とでも言ったところ。 壁はほとんど本でできているようなものだった。 あちこちに高いところの本を取るための台やはしごがあった。 天井にほど近いところの採光窓から注ぐ光に埃が舞っている。 昼間でも少し薄暗く、雰囲気はばっちりだ。 部屋の左右にはドアがあって、その向こうは階段になっているようだ。 あちこちの本を手にとって眺めながら、僕たちは、二階へ、三階へと上り、そして地下へ向かった。 階段が左右にあるせいで、かなり長い距離を歩くことになった。 何て不便な構造なのだろう。 建物から遠いガレージと一緒だ。 でもその不便さが魅力なのかも知れないと思った。 図書館は同じ建物の中にありながら家の他の部分とは独立した空間だった。 三階と地下は図書館の中にしか存在しないし、二階も他の部分とは断絶している。 図書館それ自体がまるで一つの建物のようなのだ。 建物の中の建物。 空間の中の空間。 その空間の中にもまた一つ空間がある。 本の中の世界という空間が。 図書館の面白いところはそれだけではなかった。 すべてのフロアが本の中身を除けば、二階と地下の左右(一階の入り口を正面とした場合の)が一階や三階と逆になっているだけですべて同じなのだ。 といっても、床や天井や書架の位置などが同じというだけではない。 たとえば一階には唯一の入り口となるドアがあるけど、そのドアと瓜二つのイミテーションが他の階の同じ場所にも作られている。 階段にしても同じだ。 三階と地下の右端にイミテーションのドアがある。 ドアの向こうにそれぞれ上りと下りの階段があるように錯覚させているのである。 さらに、細かいことだけど、地下も天井の辺りは地上に出ているらしく、採光窓からは光が注いでいた。 「ここは親父が作ったんだけどさ。「バベルの図書館」を意識したんだ」 一通り見回った後、トニーは自慢げに言った。 「なんですか、それ?」 僕には分からなかった。 旧約聖書に出てくるバベルの塔にそんな図書館があるのだろうか。 「ボルヘスっていうアルゼンチンの幻想作家が創った図書館のことさ。真ん中に穴のある六角形のフロアが上下左右に無限に重なっていて、出入口はどこにもない。この世の本という本はすべてそこにある。司書たちはそこに住んでいて、そこで一生を終える。そんな図書館のことだよ」 そこから出る道のない空間。 そこへ入る道のない世界。 それはまるで一つの宇宙だ。 紙の中で閉じた本の世界もまた一つの宇宙。 つまり、宇宙の中に無数の宇宙があるという構造。 「へえ大工さんでもあったんですね」 それから僕は図書館三階の閲覧用の机で一人で本を読んで過ごした。 各階にエアコンやトイレどころかお菓子やジュースの入った冷蔵庫まで完備してあったのには興ざめだったけど、便利なので利用させてもらった。 トニーは仕事をすると言って出ていった。 彼は本当に作家らしい。 ジョークだと思っていた。 ペンネームは僕の知らない名前だったけど、本人が言うにはそこそこ売れているらしい。 最初に読んだのはボルヘスの「バベルの図書館」だった。 これは「伝奇集」という本に収められていて、僅か数ページしかなかった。 子どもの僕にはチンプンカンプンなところもあったけど、無限の大きさの図書館という設定は面白く思えた。 でも読み終えた時、結構疲れたので、同じ本の中の別の話を読む気にはなれず、もう少し軽い作家のものを読んだ。 僕は、本が好き、読書を楽しめる、というのは一種の資質なんじゃないかと思っている。 それは読解力とかそういうのとはまた違う。 それは誰でも少しは持っている能力だけど、持っている量は人によって全然違う。 僕は多く持っている方だと思うし、今のところはそれで得をしていると思う。 お金や名声、恋人、様々な物品、広い空間と自由。 そういうものにまるで興味がないわけではないけど(っていうかあるけど)、僕を満足させるには二つのものがあれば充分だ。 本とそれを読むための時間と場所。 それを与えてくれる相手にはよろこんで従属してやる。 そんなことを思ってしまうくらい、ここで本を読むのは楽しかった。 照明は机の上のスタンドしかないので、気づくと真っ暗だった。 僕一人通れないような採光窓からは暗い西日が差し込んでいる。 部屋の中はしんと静まり返って少し不気味だった。 エアコンを消して席を立つ。 空気はひんやりとしている。 フロアには誰もいない。 微かな光を浴びて闇だけがゆらゆらとうごめいている。 あの書棚の陰にはどんな怪物が潜んでいるのだろう。 そんな想像が膨らむのをどうにか阻止しながら読みかけの本を抱え、急いで階段を目指す。 後ろから誰かがついてくるような気がして何度も振り返ったが、もちろん誰もいるはずはない。 コの字に折れる階段を降りる時、足音がとても大きく聞こえた。 階段のところには照明があるけど、赤い色をしていてつけると余計に不気味だった。 降りきるとそこは一卵性双生児のような全く同じフロア。 室温の違いだけがここが先ほどと同じフロアでないことを示している。 下りは対岸。 図書館の海を僕は泳ぐ。 物音一つしない暗闇の海を。 途中にイミテーションのドアがあった。 僕が西日に照らされ、微かにオレンジっぽい色に光っている。 絶対に開かないドア。 でも、この闇の中では開くのではないだろうか。 だとしたらどこへ? 実際にやってみようと僕の手は動きかけたがすんでのところで止めた。 本当に開かれでもしたらたまったものではない。 残り半分を泳ぎきって一階に降りた。 またもや同じ姿のフロア。 ひょっとしたら、このまま地下に降りていったらさらに下へ続く階段があって、地下二階、地下三階と無限に降りていけるのではないだろうか。 そんな想像を抱えながらも、ドアのところに辿り着く。 今度は逆のことを考えた。 このドアは本当に開くのだろうか。 巧妙な偽物にすり替わっているのではないだろうか。 そんなことを考え、一瞬躊躇したが、勇気を出してノブを握った。 そのままの勢いで、半時計回りにノブを回す。 もちろんあっさり開くと思った。 だが……開かない。 何度も試すがびくともしなかった。 恐怖が瞬間的に爆発した。 僕は拳でドアを連打する。 頭の中であの時の記憶がよみがえった。 施設の地下を探検していた時にミズ・ダルシアに見つかって、反省室に閉じ込められた時の、あの忌まわしい記憶が。 「助けて、トニー、助けて!」 叫びながらドアを思いっきり殴る、体当たりする。 しかし頑丈なドアはびくともしない。 やがて力尽き、息を切らせてドアの前に立ち尽くす。 足元の地面が崩壊して深い奈落の底へ落ちていくような感覚。 その時、クスッ、と笑い声のようなものが聞こえたような気がした。 男の子の声。 少しからかうような調子を含んだ。 どきっとして辺りを見回すと、僕から見て右側、地下へ向かう方向に白い影がぼうっと浮かんでいるのが見えた。 声を出すことも動くこともできず、ただ呆然とそちらの方を見つめていると、影はゆっくりと僕の方から遠ざかっていき、そして見えなくなった。 その時、ドアのところでガチャっと音がした。 「いや、ごめんごめん。ちょっとした悪戯のつもりだったんだよ。……怒ってる?」 「……別に怒ってないですよ」 怒ってはいなかった。 ただ気になっていた。 先ほど起こった現象が。 あれは一体何だったのだろう。 あれもトニーの悪戯の一環だったのかも知れない。 つまり、この家にはもう一人いたということだ。 でもそれだったら何で出てこないのだろう。 食卓の場にテレビはなかった。 テレビはインターネットで見るもの、なのだという。 その代わり何かのクラシック音楽が掛かっていた。 キノコのクラムチャウダーにバジルチキン、アンチョビの効いたシーザーサラダ…… 料理は家庭的だったけど、とても優雅な晩餐だと思った。 でもあんまり楽しめなかった。 あの現象について話すタイミングをずっと見計らっていたのだ。 そして結局、言い損ねてしまった。 一日が終わった。 僕は与えられた寝室に一人いる。 クーラーは遠慮なく使っていいと言われたが、控え目にしておいた。 窓の外にはピクニックにいった裏の森が見える。 じいっと見ていると、あの白い影が見えるような気がした。 一人で寝るのには慣れていない。 でもトニーやエリーのところへいくのは死んでも嫌だった。 こういうこともあろうかと思って図書館から持ってきておいたコミカルなペーパーバックを読むことにした。 一気に読み終えたところで眠くなってきたので寝た。 悪夢を見るかも知れないと思ったが、その心配は無用だった。 ペーパーバックが効いたのだろうか、最高に楽しい夢だった。 全く、単純な人間である。 翌朝は目を開き、時計を見ると7時だった。 (やばい、ミズ・ダルシアにどやされる!) そんな恐怖から一気に目が覚めたけど、ここが白い監獄でないことを思い出すと、すぐに二度寝した。 次に起きたのは8時過ぎ。 エリーはすでに起きていたが、トニーは午後の12時頃まで寝ていた。 前の日は僕を家族に迎える興奮で5時頃には目が開いたそうだから、その反動だろう。 お陰で昼食が少し遅れた。 /////////////////////////////////////// 内容が時々、写実的でみずみずしくイメージ豊かな極上の筆致を要求してくるのですが、そんなもの持っていないので、「大して面白くないくせに贅沢言うな!」と怒鳴りつけながら書いています。 何かもの凄く悪いことをしているような気がするのですが、どうしたらいいのでしょう。 (19歳 匿名希望) と冗談はさておき、何だかどんどん話がありえなくなっているような気がします。 ホラーっぽいテイストな割にちっとも怖くなさそうだし。 第一話を書いた時点では、まさかあんな図書館が出てくるとは思ってもみませんでした。 ましてや、実体を見せずに忍び寄る白い影(古いネタ、っていうか私にとっても古いぞ)だなんて。 ちなみに予告しておきますと、次回はもっとありえないものが出てきます。 |
17547 | パジャマの樹:第三回:夏の終わりのト短調 | 蝶塚未麗 | 2006/3/9 00:17:46 |
記事番号17512へのコメント マエガキ こんばんは、蝶塚未麗です。 先日、卒業式がありました。 ついに私も晴れて高校卒業です。 その日の夕方、同級生で集まって食事をし、カラオケにいきました。 全員で12人ほどです。 これでも学年の3分2くらい。 カラオケで暗い不倫ソングを歌ったら、「暗い」「怖い」「気味悪い」と大絶賛の嵐でした。 多分、歌詞と曲のせいだろうなと思って普通のラブソングも歌ってみましたが、似たような反応。 なぜでしょう、私には全く理解できません。 ////////////////////////////////////// ――パジャマの樹 The best space to sleep―― ディック家での僕の仕事はトニーの家事を手伝うこと。 特に、朝寝坊のトニーに代わって朝エリーにコーヒーを淹れることが一番の任務だった。 白い監獄では毎日職員のためにコーヒーを淹れる雑用をやらされていたから、テクニックには自信があった。 エリーも褒めてくれた。 トニーを間に挟まずにエリーに会うのも最初は緊張したが時期に慣れた。 魔性の女だとか魔女だとかいうのは全くの見当外れだった。 いや、本性を隠しただけかも知れないから、まだ完全には安心はできないが。 今の時期は夏休み真っ盛りだけど、新学期が始まっても学校へはいかないことにした。 僕もいきたくなかったし、トニーもいかせたくないようだった。 でも勉強しないわけにはいかないから、とトニーが家庭教師役を引き受けてくれた。 白い監獄での勉強は苦痛でしかなかったが、トニーは教え方がユニークで危うく勉強好きになりかけたくらいだ。 もし大学へいきたくなったらGED【大検】を受ければいい。 これで僕はこの山奥に完全に監禁されたことになるけど、同時にそれは本を読む時間を外部から阻害されずに済むようになったということでもある。 「本ばっかり読んでないで」と言う人間はおとなにも子どもにも多い気がする。 僕は毎日図書館にいった。 トニーから鍵を手渡されている。 図書館の合鍵である。 これでもう二度と閉じ込められる心配はないということだ。 口約束よりもずっとはっきりした信用だ。 ずっと冷たい信用でもあった。 冷蔵庫で冷やすと特に。 白い影は初日に見かけてから幾度となく現れた。 二回目、三回目の時はまだ怖かったけど、そういうものがいるんだと認めてしまうと案外怖くなくなるものだ。 現れるのは決まって夕方。 夜も現れるのかも知れないが、試したことがないので分からない。 図書館は昼間でも結構雰囲気があるのだけど、演出にこだわる方なのかも知れない。 また二階と三階には現れないことも分かった。 地下が一番現れる確率が高い。 僕が見つけると、いつも遠ざかっていくのだけど、追いかけていくと決まって地下一階の右端の(下り階段があると錯覚させている)イミテーションのドアのところで消える。 そこに何かがあるのだろうと思った。 トニーたちには言わないことにした。 図書館には人一人が一生掛かっても読めないくらいの本があるくせに、トニーはまだ本を買っている。 街へ買い物にいく時に時々、気になった本を買ってくるし、稀覯本の類はその筋の業者に探させている(インターネットショッピングは好きじゃないから、とやらない)。 それらをジャンル別に分類し番号を振って図書館に納める。 すでに図書館はほとんど満杯なので、時々不要な本を売るか捨てるか寄付するかしなければならないのだが、その作業もトニーがやる。 ほとんど趣味というか、完全に趣味なのだという。 家事もきちんとこなした上でやっているのだから、凄い。 さらに小説を書き、僕の家庭教師までやっているのだ。 本を読む暇なんて僅かだろう。 確かに昔はたくさん読んでいたのだろうけど、今は集めることが好きで、読むのは二の次なのかも知れない。 実際、一度も読んだことのない本を捨てる、なんてこともあるくらいなのだという。 それは何となく本に対する冒涜のような気もするけど、文句を言う権利は僕にはないのだろう。 またトニーはお金を使うのがすきだ。 父親から莫大な遺産を受け継いでいるのでしようと思えばいくらでも贅沢できる。 本ももちろんそうだが、他にも色々とわけの分からないものを買ってくる。 それらを部屋に持ち込んで、部屋を散らかして廃墟のようにすることにどうやら生きがいを感じているらしい。 さらに慈善家ぶったところがあるようで、しょっちゅうあちこちの団体にお金を寄付しているという。 その中には僕の囚われていた白い監獄も含まれているようだ。 エリーは仕事熱心だ。 本人はあくまでも趣味と言い張るが。 何でも数人の仲間とインターネットで金融会社を経営しているのだという。 トニーの父親の遺産の何割かが資本になっているのだとか。 さらに株投資などもしているらしい。 エリーはとにかくお金を儲けるのがすきなのだ。 トニーはお金を使うのが好きだから、うまい具合にバランスが取れていると言える。 彼女は僕に外の世界のことを教えてくれた。 政治や経済などのことを。 インターネット(トニーから使ってないノートパソコンをもらった)で読んだニュースの疑問点にも易しく答えてくれた。 でも彼女の話に出てくる現実の世界に出て、実際に生きていく自信はあまりなかった。 いやなら一生ここにいればいいと二人は言ってくれたけど、実際そういうわけにもいかないだろう。 少しずつでいいから、自立するためのスキルを何かしら身に付けておこうと思うようになった。 我ながら何て真面目なんだろう。 あの樹の根元で読書をし、うろの中で昼寝をした。 トニーが言った通り、あそこは眠るのには最適の場所だった。 とても温かく、心地いい。 何か大きなものに包まれているような感覚。 母の胎内というのはこれに近いのではないかと思った。 子宮の樹とでも呼ぼうと思ったけど、何か表現が生々しい気がしたので、パジャマの樹、にした。 寝ている時、まるで樹を着ているような感覚だからだ。 夜眠れない時も重宝した。 パジャマの樹の中ではあらゆることを忘れてしまうことができる。 いくまでが怖いけど、いってしまえば安らかな眠りが約束された。 ベッドで眠るよりもよっぽど気持ちよく、疲れも取れる。 こちらで眠ることに慣れてくると、ただのベッドでは寝てもあまり疲れが取れなくなってきた。 裏の森に秘密の花園を見つけた。 その日、僕は緑のトンネルをそれて、木々の乱立する中を道に迷わないように気をつけながら午後の散歩していた。 どんどん歩いていくと、森はだんだん深くなり木々も密集度合いを深めていく。 道はゆるい登り坂になった。 鳥が鳴き、セミも騒いでいるが、それでもどこか静けさを感じる。 夜でもないのに差す光の量は微かで、まるで海の底にいるかのような気分になった。 森と海というのはよく似ているような気がする。 今見ているのはこの場所の過去の姿を映す幻で、本当はここは海の底なのかも知れない。 僕も魚で、かつては人間だったのが、神様の怒りを買って小さな魚に姿を変えられ、その上、不死の力まで与えられたのだ。 そしてさまよえるオランダ人のごとく、永遠に海をさまようことになった。 七年に一度の救済もなく、呪いのために他の魚に食べられることもなく。 そんな僕は時々、昔のことを思い出す。 夜毎、人間であった頃を懐かしみ、時には自分が今も人間であると錯覚する。 その錯覚の中に浸っている時は幸せだけど、夢はやがて泡沫のように消え去り、覚めた時には涙を流したくなるくらいかなしくなるが、魚には涙を流す器官なんてない。 かなり深くまできてそろそろ引き返そうと思った時、視線の先にチューリップに似た赤い花が咲いているのを見つけた。 妙に作り物めいた印象があって近づいてよく見ると、それは造花だった。 ポリエステルかビニールのような材質だ。 その位置からはさらに別の花が見えた。 やはりチューリップのような花で、今度はオレンジ色だった。 その位置からさらに別の花が見える。 今度は黄色。 海底森林の冷たい水の中を、誘われるように僕は歩いていく。 道はだんだんと下りになった。 次は何と緑。 花弁も葉も茎もみんな緑色だけど、微妙な色合いの違いがあった。 そして青。 たとえ宇宙全部を探してもここにしかない幻の花だ。 最後は紫。 そこに辿り着いた時、すぐ向こうには光の溢れる空間があった。 そいつらは表情のない一つ目でこちらをじいっと見つめていた。 さんさんと降り注ぐ陽の光を浴びて輝き、風が吹けば流されるように踊る。 僕を迎えてくれたのは広い空間に墓標のように立ち並ぶ、無数のひまわりだった。 黄と黒のコントラストが鮮やかであり、気色悪くもある。 とても背が高く、それ自体が一つの森のようだった。 もちろん全部造花だった。 にせもののひまわりの森。 あまりに異様な光景だ。 トニーが作ったのだろう。 まさしく自然の中の人工自然、の極致と言える。 興奮のあまり、僕はその中に飛び込んでいった。 僕の腕やからだがいくつかのひまわりの茎に当たり、ひまわりたちが大きく揺れる。 でも地面にしっかり埋まっているようで、それくらいでは倒れなかった。 誰かが僕を追いかけてくる。 僕は逃げなければならない。 もし捕まれば、僕もひまわりにされて、ここで一生過ごさなければならない。 ひまわりの森での鬼ごっこごっこはあんまり楽しくなかった。 興奮している間はよかったけど、冷めてくるとむなしくなった。 今度は本当の鬼ごっこをやりたいと思った。 トニーに言ったらしてくれるだろうか。 でも二人でも退屈だし、それに子どもっぽいと思われるかも知れない。 こんなもの作るトニーの方が遥かに子どもっぽいけど。 8月も半ばを過ぎた日の晩。 「ねえ、海にいきたくない?」 ある日の夕食、ナイフでステーキを切りながら、エリーがそんなことを言った。 食卓の場に流れていたのは僕の知っている音楽だった。 ベートーヴェンの「月光」第一楽章。 エンドレスで流れている。 静かなディナーに相応しい曲で、実際メニューはちょっと豪勢なものだった。 「ああ、そういえば、いってないね」 ピアノの調子に合わせるようにトニーは言った。 ちょっと気取っている。 「僕は毎日溺れてるけどね」 その海は黒インクと白い紙でできているけど。 僕が明るい感じで言った。 ムードとかは無視して。 すっかり馴染んでいる。 テレビのない食卓にも、この家族にも。 「明日は休みだから、みんなでいかない?」 「僕は構わないよ。レイはどう?」 そう言ってトニーはワインにそっと口をつける。 この家でアルコールを飲みたがるのは彼だけだ。 もちろん反対なんかしなかった。 僕たちの海いきはあっさりと決まった。 海までは車で二時間半くらいの距離があった。 眠くなるようなクラシックではなく軽快なポップスで武装したメルセデスは、山を駆け下り、コンクリートジャングルを疾駆する。 運転しているのはエリーだった。 この重厚な漆黒の車には、道楽者のトニーより実業家のエリーの方がずっとよく似合う。 「トニーの運転は退屈なの」 そういう彼女の運転はかなり荒っぽかった。 山道ではS字カーブを減速せずに突進し、街に入ってからは二車線道路で前の車をごぼう抜き。 「ちょっとストレスが溜まってたの」 ギラギラ輝く太陽の下、ビーチは白いビル群を背景に半裸の人、服を着た人でごったがえしていた。 それはまだ夏が終わっていないことの何よりの証拠だった。 筋肉質の黒人が目の前を横切っていく。 子どもがビーチボールを抱えて走り回っている。 大声で話し合っているおばさん連中がいる。 コケてトロピカルドリンクをこぼし、仲間に笑われている青年がいる。 仲睦まじそうなカップルや夫婦の姿も見られる。 温かい死体がたくさん並んでいる。 日光浴をしている人たちだ。 「こういう人ごみもたまにはいいもんだね」 「そうね」 でも僕は苦手だ。 監獄にいたから集団生活には慣れさせられているけど、それとはまた別だ。 知らない人ばかりだから、怖いのだ。 何を考えているのか分からない。 僕のことをどう見ているのだろう。 そんな自意識過剰なところがあって、ついつい想像を働かせてしまい、妄想がどんどん恐ろしい方に向かっていってしまうのだ。 僕の想像力に掛かればここにいる人はみんな殺人鬼か変質者か変態殺人鬼になる。 そしてみんな僕を標的にしていることになる。 ……というのは全部冗談。 こういう賑わいも割と嫌いではない。 泳いでる人がいる。 泳いでいるのか溺れているのか分からない人もいる。 浮き輪やビニールボートの人もいる。 水と戯れているだけの人も多い。 サーフィンや水上スキーなどをしている人だっている。 エリーもその仲間だ。 家から持ってきたオレンジのサーフボードを片手に敵地に突っ込んでいく。 僕とトニーは泳ぎすらできなかったから、水と戯れるだけ部隊に配属された。 ランチは海辺のファーストフードで買って食べた。 店は水着客がいっぱいいた。 デザートにはあの赤い実。 あの実はトニーもエリーも大好物だし、僕もだんだんと手放せなくなってきている。 海に飽きると映画を見にいった。 映画を見にいくのは久しぶりだ。 白い監獄時代はお小遣いが限られていたので、テレビでやっているのを見せてもらうくらいだった。 ジャンルはアクションコメディだった。 何となくトニー好みな感じだったけど、一番笑ったのはエリーだった。 外が涼しいので窓を開けて帰ることになった。 空はオレンジ色に染まり、吹いてくる風は少しさみしげ。 夏もこれから終わりに向かっていくのだ。 少ししんみりした気分になった。 そういえば、白い監獄のみんなはどうしているだろう。 相変わらず職員たちに虐げられているのだろうけど、仲間内ではうまくやっているのだろうか。 もう会うことはないだろうけど、みんな幸せになって欲しいと思う。 夕食は途中、レストランで食べて、家に着いたのは真っ暗になってからだった。 その夜はなかなか眠れなかった。 別れた友達の顔が、それに亡き両親のおぼろげな姿が、次々に頭の中に浮かんできたからだ。 彼らはみんな昼下がりの丘に吹く風のような穏やかな(だけど少しさみしげな)笑顔を浮かべていた。 パジャマの樹にはいかなかった。 何となくひどい裏切りのような気がしたからだ。 ///////////////////////////////////// アトガキ 揚げたイカのお菓子のパッケージに「大自然からの贈り物」と書いてあるのを見て、思わず「略奪物」では? と思ってしまいました。 何だかローマ教皇に圧力かけて王冠ぶんどるのと同じような感じ?(違うか) もし科学がありえないくらい発達して母なる大自然さんにインタビューできる日がきた時、それについて質問したら「いやー、あれはれっきとした贈り物ですよ。ご安心ください。ははははは」と気さくに答えてくれるかも知れませんが、もしそうなっても安心してはいけません。 発達しすぎた人類の科学力を恐れるがために本音を隠しているのかも知れませんからね。 っていうか、それだけ科学が発達して地球の自然がまだ残っているっていう時点で奇跡的すぎるような。 いやちょっとくらいは残ってるかな。 人間も自然だし。 |
17548 | パジャマの樹:第四回:Death Is A Lonely Business | 蝶塚未麗 | 2006/3/15 16:52:57 |
記事番号17512へのコメント マエガキ 早いのか遅いのか分かりませんけど、最終回です。 何だか話が一気に展開しています。 ////////////////////////////////////////// ――パジャマの樹 The best space to sleep―― 9月になって、僕は小説を書き始めた。 僕の最高に尊敬する作家レイ・ブラッドベリは12歳の時、おもちゃのタイプライターで書き始めたというが、僕、レイ・ディックはそれより早い11歳だ。 書くというのはとても楽しい作業だった。 頭の中にしか存在していなかった物語の蜃気楼が僕の目の前で徐々に実体化していく。 僕は寝食を惜しんで書き(危うく勉強時間も惜しみそうになった)、三日と経たない内に処女作が完成した。 トニーに見せると、色々とアドバイスをしてくれたので励みになった。 僕は早速次回作に移った。 最初の内は一日中書いていたけど、だんだんと一日に書ける量というのが分かってきた。 それからは一日のノルマを決め、コツコツ地道に書いていくことにした。 気分転換にはパジャマの樹のうろで昼寝したり、裏の森をひまわりの森まで歩いたりした。 本は以前ほどは読めなくなった。 読んでいる最中も、自分の小説のことを考えてしまい、あまり集中できないからだ。 9月ももう終わりに近づき、僕を取り巻く世界はめっきり涼しくなって、少し肌寒いくらいだった。 雨の降ったある日、エリーの部屋の引き出しに怪しい薬びんを見つけた。 エリーはその日、珍しく何かの用事で出掛けていたので部屋の中身をこっそりとチェックさせたもらったのだ。 ラベルを見る限り、胃に効く錠剤が入っているようだったが、中に入っていたのは得体の知れない粉だった。 遊び半分でその粉をお菓子に混ぜ、森の中においておくと、翌日、その場所で鳥が冷たくなって転がっていた。 10月になった。 10月はたそがれの国。 ブラッドベリの王国だ。 でも僕の王国ではなかったらしい。 最近、睡眠時間がだんだんと増えてきている。 この前なんか夜の9時頃に眠って昼の11時くらいに起きたのに、それでも不充分で3時頃に一時間ほど昼寝した。 もちろん全部パジャマの樹の中でだ。 どんなに遠い場所にいても眠くなるとあの樹の方へ誘い込まれていってしまう。 この誘惑にはあらがうことができない。 明らかに異常な状態だ。 体力も明らかに衰えている。 肌に触れる風は永遠にさまようだけの孤独を嘆いているかのようで、世界がとても色褪せて見える。 秋という季節の魔法のせいもあるだろうけど、きっと僕自身にも魔法が掛けられているに違いない。 どんなに晴れた日でも、僕というフィルターを通してみれば、モノクロームの曇り空。 まるで一気に年をとって80の老人になったような気分だ。 多分、ハロウィンまで持たないだろう。 それでも小説は書いている。 ブラッドベリだって80を過ぎているのにまだ書き続けているのだ。 まだまだ若いもんには負けていられない。 その日は霧雨だった。 昼食後、二人がちょっと用事があると言って出かけていった。 夜の7時頃には戻るという。 本当は僕も誘われたのだけど、断った。 疲れていて体調が悪いから、と言ったのだが、半分本当で半分は嘘だった。 メルセデスのエンジン音を遠くに聞くと、僕はしばらく待ってからトニーの部屋に向かった。 トニーの部屋は僕やエリーのものと同じで二階にある。 本にCD、カートゥーンキャラクターのぬいぐるみ、それに異国の仮面や人形のような怪しげなものでゴテゴテと散らかっている。 正常な人間の住む部屋とは思えない。 しかもクローゼットの中には何のために買ったのか、フリフリの子ども用ドレスなんかがあったりする。 トニーは何度か僕にそのドレスを着せようとした。 もちろん跳ね除けてやったけど。 僕は目的の場所へと向かった。 パソコンをおいてある机の引き出しの三段目だ。 引き出しを開けると、色んなものが入っている。 ハサミにタオル、カッター、油性マジック、プラスドライバー、ペンライト、片方だけしかないゴム手袋。 その中に混じってキーホルダーがあった。 鍵が二つついている。 一つは図書館の入り口の鍵だろう。 僕を図書館に閉じ込めた時に使ったものだ。 そしてもう一つは…… キーホルダーをポケットに入れ、ついでにペンライトも頂くと、僕は図書館に急いだ。 階段を下りて地下へ向かう。 雨の図書館はとても陰気だ。 でも僕の心はどきどきしていた。 これまでにもチャンスは何度もあった。 けれどしり込みしてきた。 でも今度こそ確かめるのだ。 あの白い影が消えていく、イミテーションのドア。 あのドアが偽物とは到底思えない。 きっとあれは本物のドアで奥にはきっともの凄い秘密が隠されているのだ。 ドアのところに辿り着いて、僕は鍵を取り出す。 手は少し震えていた。 鍵を鍵穴に突っ込み、一気に回す。 ガチャっと音がした。 やっぱり僕の思ったとおりだ。 ドアを開く。 向こうは真っ暗だった。 闇がじっとこちらを睨んでいる。 スイッチを押し、明かりをつけると、赤い光が闇を駆逐した。 僕はゆっくりと降りていく。 階段を降りきるとドアがある。 他の階段と全く同じ構造だ。 ノブを回すと簡単に開いた。 そこは上のフロアと同じような細長い空間だった。 赤いカーペットに白い天井。 だがそこには本棚は一つもなく、白い壁が剥き出しになっている。 採光窓があり、光が注いでいるが、これは窓ガラスの向こうに照明があるのだろう(どうでもいいけど、電気代の無駄だ)。 台の上におかれた大きなガラスケースが等間隔にたくさん並んでいて、何だか博物館か何かの展示室のようだった。 だがそのガラスケースは奥の方にあるいくつかを除けばすべてが空だ。 まだ未完成なのだろう。 僕はフロアを進んでいく。 ここにもイミテーションのドアがあった。 ただし「STAFF ROOM」と書かれたプレートが張ってある。 これも博物館の演出なのだ。 さすがに冷蔵庫やエアコンはなかったけど、トイレもあった。 一番奥まで辿り着く。 人形の入ったガラスケースが四つ隣り合わせに並んでいた。 人形のサイズは僕と同じくらいある。 子どもの人形だから実寸大というわけだ。 どれもデザインは微妙に違うけども、トニーの部屋にあったのと同じようなフリフリのドレスを着せられている。 赤や白のトゥーシューズにハイソックス。 頭には可愛らしいボンネットを被っていた。 でも手足は干からびて黒ずみ、顔はしわくちゃでまるでミイラのよう。 プラチナブロンドに輝く長い髪が異様なほど鮮やかだ。 目玉は両方ともなく、口元はなぜか恍惚の笑みに歪んでいた。 僕はその人形の一つから目をそらすことができなかった。 気づけば足が震えている。 心臓の鼓動が聞こえるくらい激しい。 それにひどく気持ち悪かった。 もちろんこんなものを作ったのはトニーだろう。 トニーに決まっている。 トニーは悪魔だ。 震えた足で少しずつ後ずさり、一気に後ろを振り向いて全速力で逃げ出した。 何度も足がもつれ転びそうになる。 図書館の一階まで辿り着くと、トイレに直行して昼に食べたものをすべて吐いた。 からだの中身を内臓ごとすべて吐き出してしまいたいくらいだった。 吐いている間も、忌まわしい映像は何度も頭の中にフラッシュバックしてきた。 僕にはあの人形が何でできているか分かっていた。 あれが少女のものではなく少年を女装させたものだということも何となく分かっていた。 吐き終えると、見たことをすべて忘れたくて、霧雨の中、パジャマの樹の方へと向かった。 それが何を意味するのかもまた分かっていたが、衝動にあらがうことはできなかった。 その日の夕食は僕が用意した。 これでも料理の経験はある。 トニーほど上手には作れないだろうけど、同じ11歳ならよほどの天才を除き、誰にも負けない自信がある。 おとなの見ていないところで火を使ってはいけません。 知ったことか! 僕はハンバーグを焼き、シチューを作り、フライドポテト、それに特製ドレッシング(レシピは秘密)を掛けたサラダをこしらえる。 例の実もちゃんと採ってきた。 エネルギー補給としてのつまみ食い用も含めて。 料理を食卓に並べ終えた時、計算したかのように二人が帰ってきた。 僕はハグとキスで出迎える。 「おおっ、これは凄いねえ。全部レイが作ったのかい」 トニーが料理を見て、大げさなほど驚いてみせる。 「うん、ちょっと休んだら元気になったからね」 僕はすまし顔で答える。 「凄いわ、レイ」 エリーも喜んでくれているようだ。 早速食事が始まった。 今日の音楽はショパンの「別れの曲」をエンドレス。 これも僕が選んだ。 「うん、美味しい」 僕のシチューを口にしてエリーは満面の笑みを浮かべた。 トニーは腹が減っているのか早速ハンバーグに挑みかかる。 僕はハンバーグを一口食べ、フライドポテトをつまみ、フレンチサラダもちょこっと食べる。 さすが僕だ。 はっきり言ってかなり美味しい。 将来は料理人になってもいいかも知れない。 ハリー・クレッシングの小説に出てくるような料理人になって、世の中をめちゃくちゃにしてやるのだ。 「だんな様、ワインはお召し上がりになりませんでしょうか」 僕はおどけた調子で言った。 「うん、頂こうか」 主人ぶった演技でトニーが言う。 僕は立ち上がって、キッチンの冷蔵庫へ向かった。 それはアルコール専用の冷蔵庫、ワインも様々な種類が取り揃えられている。 トニーは一日でボトル一本を飲み切るのですべて未開封だ。 僕はその中から一つをチョイスし、封を開けると食卓へ戻った。 「何年のものだね?」 すかさずトニーが訊いてくる。 「はい、55年のものです」 「ほう、今年のものか」 「ええ、フィリップ様」 トークをかわしながら、トニーのグラスへボトルを傾ける。 エリーの方をチラッと見ると、案の定、怪訝そうな顔をしていた。 ちなみに本当は2002年ものの安ワインだ。 トニーはワインに関してはB級グルメを自称している。 ロマネコンティだのシャトー・マルゴーだのと高級ワインを買い漁るくらいの贅沢は充分許されている身分なのだけれど。 トニーがグラスを掴んだ。 そっと口元に持っていく。 僕はハンバーグに添えつけてあるニンジンを頂く。 エリーはサラダにフォークを伸ばしている。 トニーがワインを口に含んだ。 思わず視線がそちらを向く。 傾けたグラスを元に戻したその時、 「……っ!」 突如、苦悶に歪む表情。 グラスがテーブルの上におち、赤紫の波がテーブルクロスの上に広がる。 両手で胸元を押さえるトニー。 何かを言おうとするが言葉にならない。 救いを求めるように右手を伸ばし、そのままテーブルの上に突っ伏して、何度かけいれんした後、もう二度と動かなくなった。 僕もエリーも食事の手を止めて、動かないトニーの姿を見つめ続け、ショパンのピアノだけが凍りついた時の中を静かに流れていた。 僕とエリーは電池の切れたトニー人形を物置部屋に安置し、食卓を綺麗にした。 言葉はなかった。 ただすべての仕事が終わった後、エリーは僕を強く抱きしめ、長い長いキスをしてくれた。 彼女もまたトニーという悪魔から解放されたかったのだろう。 ずっと本心を隠して仲のいい夫婦を演じてきたのだ。 あの引き出しの中の毒薬が何よりの証拠である。 いずれ自分で手を下そうと思っていたのか、僕にわざと見つけさせて使わせるためにおいておいたのかは分からないけれど。 その日はエリーと一緒に寝た。 ベッドの上で眠るのは久しぶりだった。 エリーのからだはとても温かくて、パジャマの樹にも負けないくらいだった。 だけど疲れはあまり取れなかった。 朝、目が覚めるとすぐにパジャマの樹に向かい、そこで夕方までぐっすりと眠った。 僕が眠っている間にエリーはトニーを森の奥深くに埋葬した。 副葬品として地下展示室の人形と毒薬も一緒に埋めたらしい。 エリーはスタミナこそ抜群だけど、腕力は普通の女性並だ。 きっとかなりの重労働だったことだろう。 その六日後には僕もまたパジャマの樹の中でミイラのように干からびて永遠の眠りについた。 予想通り、ハロウィンまでは持たなかった。 最後の六日間で遺作となる小説を書き上げたけど、到底、人に見せられるようなものではなく、完成してすぐに削除を掛けた。 エリーはトニーの捜索願を出した。 でも僕のは出さなかった。 エリーは教えてくれた。 トニーが嘘を吐いていたことを。 養子の手続きなんて本当はされていなかった。 僕は強欲な職員たちによってこの家に売られてきたのだ。 エリーがどうせ動かない邪魔な手足を切り取ってくれたお陰で、僕のからだは随分と軽くなった。 彼女は胴体と首だけになった僕を秘密の部屋に招待してくれた。 といってもあの悪夢のような地下展示室のことではない。 あんなもの、隠し部屋の内にも入らないからだ。 あの不思議な白い影(多分、あそこに展示されていた少年の亡霊だろうと思う)のお陰で簡単に見つけられたし、白い影がいなくてもその内見つけていただろう。 トニーはわざと僕にあの部屋を見つけさせたのだ。 それによって僕がどのような反応を起こすか楽しみにしていたのだ。 ゲーム感覚だったに違いない。 しかもそのゲームは僕だけでなく、多分、あの部屋に展示されていた四人の少年の内、最初の一人を除く三人ともおこなわれてきたのだろう。 どこから調達してきたかは分からないけど、僕と同じような境遇だったと想像できる。 本が好きで図書館が好きで自然が好きで好奇心が強く、でも少し臆病者な少年だったのかも知れない。 彼らはトニーとのゲームに敗れ、人形にされた。 まあ、無理もないことだ。 ああいうものを見つけた時の最善の対処法は警察に通報することだが、それはとても勇気にいる行為だし、今の豊かな生活を失うことになりかねない。 パジャマの樹に依存している状態だったらなおさらだ。 ディック家の子どもでなくなれば、もう二度とあそこで眠ることはできない。 まさか毒殺されるだなんて思ってもみなかっただろう。 いや、それさえも想定の範囲内、ゲームにリスクはつきものだと考えていたのかも知れない。 トニーなら充分ありうる話だ。 秘密の部屋は地下展示室に通じる階段の踊り場の壁の向こうにあった。 それは巧妙に隠されていて、よほど注意を払わないと分からないようになっていた。 多分、いざという時に人形を隠すために作られたのだろう、狭く殺風景な部屋だったが、エリーが家具など、色んなものを持ち込んでくれた。 トニーみたいに女の子の服を着せるようなおぞましいことはしなかった。 エリーは毎日のようにやってきてくれた。 本を読んでくれることもあったし、重たいからだを抱きかかえて森まで散歩に連れていってくれることもあった。 冬の日の散歩、海底森林に降るマリンスノウはとても綺麗だった。 地下展示室にはトニーの集めたガラクタが飾られるようになった。 以前ほどではないけれど、充分異様な展示室となった。 本当にこんなところに飾られなくてよかったと思う。 考えただけで鳥肌が立ちそうだ。 次の年の夏になって、エリーは家に一人の少年を連れてきたことを僕に告げた。 ひどい裏切りだと思った。 口が動くなら抗議してやりたかったが、僕にはあの白い影みたいに、クスッ、と笑うことさえできない。 僕は亡霊にはなれない種類の人間だったのだ。 彼女は僕に言った。 これは仕方がないことなのだと。 彼女は僕がかつてパジャマの樹に依存していたみたいに、あの赤い実に依存していて、あの実がないと生きてはいけない状態にまでなっているのだという。 しかしあの実は少年の生命エネルギーを原料として作られているから、定期的に少年を生贄に捧げなければならないらしい。 荒唐無稽な話だけど、信じることにした。 ちゃんと少年を連れてきたことを打ち明けてくれたからだ。 彼女はそれから毎年、少年を連れてきて、パジャマの樹の生贄とした。 エネルギーを吸い取られ、ミイラのように干からびた少年たちはすべて森に埋められた。 僕だけが特別扱いだった。 家に他の少年がいる夏から秋にかけての数ヶ月間は、外の世界を目にすることができなかったけど(冬場にしてくれればいいのに、と何度も思った)、まあそれは我慢できた。 やがて発見されないトニーは死亡扱いとなり、エリーはトニーの全財産を正式に受け継いだ。 もしも僕に声を出すことができれば、そのことを盛大に祝っていただろう。 別れは唐突にやってきた。 ある日を境にエリーが僕の部屋にやってこなくなったのだ。 理由は分からない。 僕のことが嫌いになったのかも知れないし、何らかの理由でいけなくなったのかも知れない。 たとえば、病気になったとか、森の死体が見つかったとか…… 何にせよ、それを境に僕はひとりぼっちになった。 部屋には図書室から持ってきてもらった本があるけど、僕一人では読むことができない。 ノートパソコンで小説を書くこともできないし、ドアを開けてここから出ていくこともできない。 ひたすらに退屈で、それがさみしさを何倍にも膨れ上がらせた。 僕にできることはたった二つ。 考えることと、思い出に浸ること。 その二つならいくらでもできた。 でもたったそれだけだ。 頭の中で小説を考えることはできるけど、書く喜びを知ってしまった以上、そんなものはただむなしいだけだ。 エリーの声を聞きたくてたまらなかった。 とても綺麗な優しい声を。 その声で本を読んで欲しかった。 散歩に連れていって欲しかった。 そしてもう一度抱きしめて、長いキスをして欲しかった。 同じベッドで眠りを共有して欲しかった。 だけど彼女はやってこない。 ふー、話はこれでおしまいだよ。 ごめん、疲れたかい。 ちょっと長くなり過ぎちゃったね。 まさかこんなに長くなるだなんて思ってもみなかったよ。 え? 今の話全部本当かって? もちろんそうだよ。 今はどうなってるか分かんないけど、この家には昔、トニーとエリーっていう夫婦が住んでいたのは紛れもない事実だし、そこに僕がやってきてパジャマの樹に殺されてここに閉じ込められたのも全部ほんとの話。 やってこないエリーをずっと待っていたのだってね。 だから僕は今、凄く嬉しいんだよ。 さみしかった。 ほんとにもう死んじゃいそうなくらい一人ぼっちがさみしかったんだ。 あっ、いやもうとっくに死んじゃってるけどさ。 とにかく、君がきてくれてたことほんとに感謝してるんだ。 君は僕にとって本当に神様みたいな人なんだよ、いやほんとにさ。 エリーじゃないけどエリーと同じくらい素敵だ。 君に僕のことを話せてほんとによかったよ。 え? さっき喋れない言っていったのにどうして話せるのかって? ああ、そうだったね。 ……君なんてほんとはいないんだ。 ///////////////////////////////////// アトガキ パジャマの樹の少年を生贄にすると赤い実が実るという荒唐無稽極まりない設定は、自動販売機のシステムから思いつきました。 谷山浩子さんの同名の曲とは全くの別物に仕上がっています。 できのいい作品ではないですけども、色んなものがぎっしり詰まっていて書いてて凄く楽しかったので、またこういうの書きたいです。 多分誰も読んでくれないんじゃないかと予想しつつも(笑)。 さて、これだけで終わるのもそっけない気がしますので、本作を書く上で大なり小なり影響を受けた作品を紹介させていただきます。 順不同。 ミッチ・カリン「タイドランド」 レイ・ブラッドベリ「たんぽぽのお酒」 レイ・ブラッドベリ「塵よりよみがえり」 レイ・ブラッドベリ「死ぬときはひとりぼっち」(原題「Death Is A Lonely Business」) レイ・ブラッドベリ「さよなら、コンスタンス」 ジョリス・カルル・ユイスマンス「さかしま」 乙一「夏と花火と私の死体」 井辻朱美「幽霊屋敷のコトン」 服部まゆみ「シメール」 服部まゆみ「この闇と光」 桐生祐狩「夏の滴」 高楼方子「十一月の扉」 山尾悠子「遠近法」(アンソロジー「書物の王国」の1巻に収録) 長野まゆみ「カンパネルラ」 長野まゆみ「銀木犀」 浜岡稔「わだつみの森」 萩尾望都「ウは宇宙船のウ」 蝶塚未麗&囚鳳「落ちてきた少年」 何気に自作からも影響受けてますねー(笑)。 っていうかプロットほとんど同じだし(書いてる途中に気づいた)。 ちなみ上に挙げた作品が全部私のお気に入りです(自作含む)。 気になるタイトルあったら、ネット書店とかで検索してみるといいかも知れません。 「さかしま」なんかはかなり読者を選びますけど(私も選ばれなかった)、他は本当に凄いです。 特に「遠近法」なんか。 本作に登場した「バベルの図書館」系の幻想小説で、「腸詰宇宙」という円筒状の世界を舞台にしたお話なんですが、文章が精緻で凄く綺麗。 正直、ボルヘスの「バベルの図書館」はよく分からない上にあんまり面白くなかったんですが、こっちは最高でした。 ちっとも読みやすくないですが二段組20ページ程度の短編で区切りも多いので安心して読めます。 ただ「書物の王国」が手に入るかが問題かも。 薄いのに買うと2000円くらいするし、うちの近くのいくつかの図書館には大抵おいてあるんですけども、ないところもあるようなので。 「山尾悠子作品集成」にも収録されているんですが、これもどこにでもおいてある本じゃないしなあ(うちの近辺にもないです)。 こちらはボリュームたっぷりだけど買うと9000円くらい。 それでは、これで失礼致します。 |